風が少し冷たく感じられるようになった頃、
仁に手を引かれたまま、大きな建物のエントランスに入った。
前に来た時は、気づかなかったが、
生花が飾られ、ホテルのロビーのように広い空間。
よく見ると、他にも設備があるようだ。
このエントランスのせいで、
どこか他の店に行くのだと思い込んでしまったのかもしれない。
もっとも、あの時は周りを見回す余裕などなかったが・・・。
エレベーターで上階へ、
あの夜以来の、仁の部屋に足を踏み入れる。
相変わらず、すっきりとブルー系に整えられた部屋だが、
昼間見れば、バーには間違えようもない。
ドアから居間までの短い廊下の先、
正面の窓いっぱいに広がったお台場の海が
遅い午後の光に輝いている。
空が広い。
窓に寄って、外にベランダがあるのに気づき、
ようやく仁を振り返る。
仁はドアを開けてから、微笑んだまま、
佳代子が振り向くのをずっと待っていたのだ。
「やっぱり、すごく素敵なお部屋ね。」
佳代子が言うと、仁が近づいてきたので、
あわてて一歩後ろに引いた。
それを見た仁が、ほんの少し微笑む。
「ジャケットを預かろうかと思ったんだけど・・?」
「え?ああ、ありがとう。」
仁が佳代子のジャケットを受け取って、コート掛けにかける。
長い腕が伸び、筋肉がさざ波のように動いた。
仁がこちらに向き直ると、あわてて視線を外し、
持って来た紙袋を差し出した。
「ちょっとだけ、お土産を持って来たの」
「ありがとう。何?
開けるよ・・・」
大きな手が紙袋の中に消えると、
白い箱をつかんで取り出し、ふたを開けた。
キッシュが3種類と、丸くて小さなフランスパンとチーズ。
オードブルのミニセット。
あと小さなパイが幾つか。
別の黒い箱を開けると、仁の眉が少し上がった。
「う~ん、やっぱりこれを持って来たか・・」
中には、さまざまなフレーバーが加えられ、
彩りゆたかな極薄チョコレートが詰められている。
「佳代子って、定期的にチョコレートを食べないと倒れるのか・・・?」
「やあね。わたしが詳しいのはチョコくらいだから、
いいかな、と思って持ってきたのに。」
つんと言うと、仁が笑って、
「そうだな、どれも自分じゃ、あまり買わないものばかりだ。
ありがとう。」
腕を伸ばし、佳代子の両肩にのせると、
みるみる佳代子の体が固くなった。
仁の顔が佳代子の鼻のすぐ上あたりで止まる。
一瞬、ぎゅっとつぶりかけた目を開けて、佳代子が見上げると、
ふわり、口元が崩れた。
「また、こんなに緊張してる・・・」
仁の目が笑っている。
「そんなことないわ。」
そう言う頬の上に、大きな手の甲が優しく触れるのを感じ、
佳代子は、かばうように自分の手を上げかけた。
ごつい左手が右肩にのったままだ。
「また来てくれてありがとう・・・」
まっすぐ見下ろしたまま、仁が言った。
「いえ・・・こちらこそ、またお邪魔しまして・・」
もごもごとつぶやく。
靴を履いていないと、さらに仁との身長差を感じる。
上向いて、間抜けな顔になってないかしら・・・?
佳代子は急に心配になって、口を閉じ、仁の顔から視線を下げると、
目の前に、固く盛り上がった胸があった。
ヘンリーネックの隙間から、仁の肌がのぞいて見える。
うわ!
こんな間近に、たくましい筋肉の張りを見せつけられて、
また、別の方へと目を逸らす。
半分、体をよじって、無理矢理、窓の方に目をやろうとすると、
両肩をつかまれ、ぐいっと仁の方に向け直された。
「どこ見てるんだ。」
「・・・・どこ見ていいのか、わからないのよ。」
佳代子が仁の胸の下あたりを見ながら、正直に告げた。
仁の指があごにかかって、顔を上に向けられる。
かすかに笑った顔。
「俺だけ見てればいいんだよ・・・」
あっという間に唇が降りて来た。
背中に、柔らかく腕が回されるのを感じとると、
とても目を開けていられない。
目を閉じて、固く締まった腕の中で、キスを受ける。
2度、3度、柔らかい唇の感触が伝わると、
佳代子の体も固さを失い、ぐんにゃりと仁の胸に添って行った。
ようやく唇が離れると、ぎゅっと抱きしめられて、
ほてった頬に、隆々とした胸が押しつけられ、
仁の声が低く響いてくる。
「この前、ちょっと強引に連れて来たから、
もう来てくれないかと思った・・・」
「ちょっと?・・・かしら」
胸に顔を埋めたまま、からかうように言ってみる。
ふむ・・・
仁は佳代子のあごに手をあて、また、顔を上向かせた。
「今日は・・・『佳代子の方から』、来てくれたんだよな。」
にやりと笑う。
また、この自信満々の顔だ。
ちょっと憎らしい。
「そうよ。
折角遊びに来てあげたんだから、お行儀よくしてね。」
ドキドキする心臓をおさえて、何とか言い返すと、
仁はしばらく佳代子の顔を見つめていたが、
ふっと微笑んだ。
「お行儀よく・・ね。むずかしい・・。」
仁の大きな手が考えるように、
佳代子の背中を上へ下へと撫でていたが、不意に離れた。
「じゃ、お行儀よくコーヒーでも入れることにしよう。」
キッチンの方に引っ込むと、カウンターにある
コーヒーメーカーのサーバーに水を注ぐ。
「そうだ。丁度いいから、初級ラグビー講座と行ってみようか?」
「え、い、いきなり・・?」
「なんだよ。本気でラグビーを理解したいんじゃないのか?」
「ううん、本気だけど、でも・・・」
返事の続きも聞かないまま、ソファの方へ案内された。
壁の一部を開くと、TVのディスプレイが現れる。
「仁のプレーが録ってあるの?」
「俺のって言うより、ゲームを録ってあるんだ。
後で反省のため、何度も見返すからね・・・」
リモコンを操作すると、すぐにゲームの映像が現れた。
グリーンのジャージでフィールドを走る選手たちの姿が映ったところで
画面を止めると、コーヒーカップを持って来てくれる。
「さて・・・各ポジションの役割ってわかる?」
「う~ん、実はあんまり・・・」
佳代子は、いきなり始まったラグビー講座に戸惑っていた。
こんなことなら、もっと予習してから来るんだった・・・。
ぜんぜんわかってないのが、バレバレじゃない。
秘かに、冷汗を流す。
「俺のポジションは知ってる?」
「10番、スタンドオフ・・・」
「ありがとう。知らなかったらどうしようかと思った。」
仁が面白そうに笑った。
「もちろん知ってるわ。試合だって何度も見たもの・・・」
「得点システムは知ってるよね?」
「う~ん、たぶん・・・」
それからは、仁のていねいな説明が続いた。
得点システム、主な反則、15人のそれぞれの役割・・・。
説明が終わる度、具体的にVTRの画面で確認させる。
ようやく、佳代子にも選手それぞれの意図が見えて来た。
「仁って説明上手ね。わかった気になるわ・・・」
「わかった気って何だよ。
ホントはわからないのに、そんな気になるってことか?
自信なくすなあ。
子供相手のコーチもしていたのに・・・」
「そうじゃないわよ。
何度、ルールブック読んでもピンと来なかったの。
でも、各ポジションの役割は、いっぺんには覚えられそうもないわ。
15人って多い・・・」
佳代子が情けない声を出すと、仁が笑った。
「あとは試合見て、好きにならないとね・・・。
佳代子はラグビー嫌い?」
「ううん、嫌いじゃないわ。
会社に入るまで、全く興味なかったんだけど
うちのチームの試合観戦に行って驚いたの。
だって、ガツン、ガツンって体同士のぶつかる音が、
スタンドまで響いてくるじゃない?
あの音はお腹に響くわ・・・。
すごい迫力だと思ったし、あんなことして良く大丈夫だとも・・
あ、ごめんね。」
佳代子は思わず、口に手を当てたが、
仁は楽しそうに笑っただけだった。
「別に謝ることはない。
俺は試合では、スクラムに入らないが、
練習中、スクラム組んで押していると、みしみし音がして、
今にも体中の骨がバラバラになりそうな気がする。
でも、体が直にぶつかり合う感覚を体験してしまうと、
他のスポーツは何だか薄く思えて、
ラグビーから離れられなくなったんだよな・・・」
ラグビーを語っている時の仁は、すごく素直だ。
好きでたまらない、という気持ちが伝わってくる。
表情も熱中している少年のようで、
目がキラキラ輝いて、生き生きしている。
佳代子がぼ~っと見とれていると
「こら、聞いてる?・・・」
不意に、仁がきゅっと佳代子の頬をつねった。
「痛っ!
あ、ああ、聞いてるわよ。もちろん!」
大急ぎで口元を締めると、仁に向き直った。
どうだか・・?
疑わしそうな目つきだ。
「ま、ちょっと説明が長過ぎたかな。」
窓の外をちらっと見ると、いつの間にか、
空が金色に染まり出している。
おいで・・・。
仁の声が響いた。