AnnaMaria

 

セピアの宝石 「のぞみ」3 "闇"

 

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昼間は詩織とケイコが来てくれたので、
思いがけずにぎやかな日曜日となったけど、
二人が帰ってしまうと、しんと静まり返り、やけに部屋がよそよそしい。

仁は新しい部署に移ってから、以前よりぐっと出張が増えたが、
ほとんどが1〜2泊の仕事で、今回のように4泊というのは初めてだ。

夕食は詩織たちが買って来たものの残りで簡単に済ませ、
片付けものもなく、こんな時こそ、ゆっくりお茶を入れようと思い立ち、
ひとり分の煎茶をいれた。

義妹の茉莉が佳代子のために探してきてくれた、ひとり用の椅子。
座面が広く、肘掛けがついて、
お腹の大きくなった佳代子でもゆったりともたれられる。


「赤ちゃん、抱っこしてもゆっくり座れるわよ。
 おっぱい上げるにも良いはず。」


茉莉お墨付きの椅子は、確かに座り心地がよかった。

座ると自然にお腹に手が行く。
手のひらであやすようにそっと撫でる。

丸くふくらんで、日に日に大きくなり、
確かに新しい命がこの中で育っているのを感じる。


「いい子になあれ、元気になあれ・・・」


佳代子は声に出して撫でながら、お腹に話しかけた。


「今夜は、お父さん、お仕事でいないけど、
 あなたがいるから寂しくないわ。
 ここで待っているから、元気に生まれて、
 ちゃあんとママの元に来てね。」


よしよし、よしよ〜し・・・。

お腹に触れながら、ゆったりと話しかけていると、
佳代子の気持ちも落ち着いて来る。
子どもが生まれたら、こんな風にふたりっきりで過ごす夜もあるだろう。

生まれてからは戦争よ、妊娠中は極楽だったと、経験者はみんな言うけれど、
佳代子はこの状態が不安だ。

もし自分がころんだら、外出先で動けなくなったら、無理をしたら・・・、
負担は全部、この子がかぶることになってしまう。

とは言え、病気ではないし、ちゃんと検診にも行っているし、
不安なことは何もないんだわ。

佳代子は自分に言い聞かせると、

「もう、寝よっか?」

軽くとんとん、とたたいて、話しかけたが、
お腹は静かなまま、返事をしない。

妊婦には、休息がいちばん・・・。

またひとりごとを言い、ゆったりしたネグリジェに着替えてベッドに入ると、
たまごを抱いためんどりのように丸くなって、ひとり眠る。

今頃、仁はどうしているかな・・・・。





「ん?・・・・いたたたた・・」

月曜日の朝、ふくらはぎがつってしまい、激しい痛みで目覚めた。
妊娠してから、何度かこんな経験がある。

仁がいれば、すばやく大きな手で包んで、
すぐさまマッサージをしてくれるのだが、あいにく夫は留守だ。
自分でなんとかせねばならない。

いたたた・・と、うめきながらも起き上がり、ベッド前の床に足裏をつけ、
ふくらはぎの筋肉をゆるめたり、伸ばしたりして治めようとする。
自分でマッサージをするには、大きなお腹が邪魔でむずかしい。

数分後、なんとか凝り固まったふくらはぎがゆるまると、ほっとした。
何だか、少しだるい。
腰も痛いような気がする。

昨日、笑いすぎたのが原因かしら・・?

佳代子は少々反省したが、今日は病院に行く予定もない。
ほんのわずか買ってきて欲しい物は、昨日、詩織が調達してきてくれた。

作り置きしておいたカボチャのスープと、かりっと焼いたパンを食べ、
グレープフルーツの皮をむく。

みずみずしさに体中が目覚めていくようで、気分も晴れてくる。

窓のそばに経つと、景色のあちこちで桜が白くほころんでいた。


ああ、咲いてきたんだ・・・。


今年は桜の便りが遅いと心配されていたが、こうしてちゃんと春はやって来る。

わたしの春ももうすぐだわ。ね?

お腹に向かって話しかけながら、柔らかな春の陽射しを浴びると、
気持ちよさに佳代子の表情もほころんで来たが、
不意に会社での光景がよみがえった。


みんなは今頃、仕事してるんだろうなあ・・・。


月曜日と言えば、定例ミーティングだったが、
佳代子がいなくたって、会社も広報室も何の支障もないに違いない。

今は、赤ちゃんのことだけ考えよう・・。

どことなく、置いてけぼりにされたような気分を引き立たせ、
後片付けを済ませた。




え〜っと、あとは何をどう準備しておけばよかったかな・・・。

佳代子は「初めての妊娠と出産」という本を片手に、
用意の済んだ項目にチェックを入れていた。
同期で残っている女性社員のうち、結婚している人は居ても、
子持ちで働いている者はおらず、佳代子が初めてだ。

社内で誰かにアドバイスをもらおうにも、適切な相談役がいなくて、
病院で行われていた「母親学級」は、仕事の都合で一度も出席できなかった。

産休に入って、初めてまとまった時間が取れ、
歩けるうちにと、ほとんどの物は準備したつもりだったが・・・。


「会社への提出書類とかは、事前に書いといた方がラクね」
「おっぱいマッサージしておかないと、おっぱいが出なくて痛いわよ」
「退院する時に着せる服?
 ああ、それ一回か、その後の一ヶ月検診の時くらいしか要らないから、
 張り込むこと無いわよ」
「名前、もう考えた?考えてないと焦るわよぉ」


いずれも取引先の新聞社や、代理店に務めている先輩ママからの助言だ。

もっと早く、ラグビー部関係に顔を出しておけば、
子持ちの奥さんたちと親しくなれたのだが、そういう時間はなかった。


じゃあ、今日は銀行にだけ行っておこうかな。

佳代子は軽く身支度をした。
携帯電話と母子手帳はどんな時でも手放さない。

窓の外を見ると、穏やかにきらきらと輝く海が見えた。

気持ち良さそう・・・。
ちょっと歩いて来ようっと。




銀行での用事はあっと言う間に終わった。
温かくなると、桜が一気に3分咲きにまで開いている。

花の咲き具合を見ながら、どこまでも公園を散歩してみたかったが、
ひとりの時は遠くまで出歩かない、という仁との約束を守って我慢した。

これだけお腹が大きいと、のたのたと歩いていても、
すれ違う人が除けてくれる。

赤紫の木蓮が大きな花をいっぱいに開き、
足元には雪柳が白くうねる蛇のように、そよ風に揺らいでいる。
桜の蕾は赤く、花びらは薄紅色に染まって、いっぱいの陽を跳ね返していた。

きれいだなあ・・・。

会社にいる時は、こんな風に昼間出歩けるのは週末だけで、
それも買い物や、約束でうまり、確たる目的もなくぶらつく時間など
持てなかった気がする。

産休って、ほんのいっとき立ち止まっていいよって
もらえた人生のブレイクみたい。
生まれたら、「会社にいるよりずうっと忙しい」日々が待っているらしいけど。

名前は何にしようかな。

せっかく、桜の時期に生まれるんだから、
「さくら」「はな」。
ちょっと古風に「やえ」とか、どうかしら。

ああ、男の子だったら、どうしよう。

「春樹」「みずき」・・季節ばっかりじゃなくて、もっと未来志向で。
「翔(かける)」「雄介」・・
ありゃりゃ、初恋の彼の名前じゃない、マズいわ。


仁と二人で、候補にする名前を考えてみたことがある。
知恵をしぼりながら、1時間もあれこれ言い合い、
紙にいくつも書き付けてみたが、どうもしっくりこない。


「やっぱり、最後は顔を見てからでないとな」

「決めておかなくていいのかしら。」

「生まれてきた顔を見たら、ぴ〜んと来て、すぐ決まるよ。
 任せておけ。」


仁はそんな風に言って、途中でやめてしまったけれど、
それでよかったのかしら。

海を隔てた向こうには、汐留のビル群がつらなって見える。
青い海にベイブリッジが悠然と立ち、
空には飛行機が飛んでいる。

仁はここからどの位のところにいるのかなあ・・。

真っ白に引かれた空の線を追いながら、銀色の翼を見上げた。




部屋に戻って軽く昼食を取り、「寝られる時は寝るように」の言葉を守って、
軽くベッドに横になり、うつらうつらしていると、
かすかにお腹に違和感を覚えた。

トイレに行くと、ごくわずかだが、出血している。


どうしようか・・・?

前回の出血よりかすかに思えるが、下腹が張ってきているのが気になった。
念のため、病院に電話をしてみる。


「・・・そうですねえ。」


症状を聞いた看護士は、しばらく考えるように言葉を切った。


「たぶん、大丈夫だと思いますが、念のため、こちらに診せに来てもらいましょうか。
 ここまで来られますか?」


自分の車ではなく、タクシーを使うつもりだった。


「はい、行けます。」

「じゃあ、様子を見ながら、ゆっくりこちらまで来て下さい。
 急がなくていいですからね。少し休んでからでもいいですよ。」

「出産準備品とか、持って行ったほうがいいですか?」

「う〜ん、まだ大丈夫だと思います。
 ひとつにまとめてあるなら、あとでご家族の方に持ってきてもらえるでしょうし、
 それからでも間に合うでしょう。
 母子手帳とお財布くらいで、取りあえず、いらっしゃい」

「はい。」


母子手帳と財布はすでにバッグに入っている。
携帯電話もだ。

お腹が張って来ているのが気になり、もうしばらく横になってみることにした。
横になって休むと、お腹の張りは治ることが多い。





またしばらく時間が経った。

ほんのわずか眠ったようだが、佳代子は自分が汗をかいているのに気づいた。
お腹を触ると、さっきよりパンパンに張っている。

どうしたんだろう?

辺りを見回すともう薄暗くなりかけている。

そんなに時間が経ったのかしら?

お腹に刺すような痛みがあった。
締めつけてくるような、だんだんと追いつめられていくような痛み。

トイレに行きたいのかしら?

佳代子はトイレに立ちかけたが、自分がすでに思うように歩けないのに気づいた。

ベッドから転がり落ちそうになって、何とか踏みとどまり、
ゆっくりと体を床に落とすと、
携帯を入れてあるバッグのところまで這って行く。

テーブルからバッグをひきずり落とし、バッグの中をかき回して
携帯の固い手触りを探る。

辺りの闇はどんどん深くなっていて、目がかすんでいくようだ。

早く、早く、今のうちに助けを呼ばないと・・。

母親に電話する?それともタクシーで病院に送り込んでもらう?

いや、もうタクシーには乗れそうもない。
でも、こんなことで救急車を呼んでもいいのかしら?


10秒ほどためらっていた。
その間に、あたりはさらに暗くなり、携帯電話の画面だけが
かろうじて読み取れる状態に。

腹の痛みは堪え難いほどひどくなり、佳代子は涙がこぼれるのを感じた。
お腹がどんどん固く締まっていくようだ。

今、救急車を呼ばないと、病院にたどりつけなくなる。

佳代子は震える指で119を押すと、
「消防です。火事ですか?救急ですか?」の声を聞いた。

「救急をお願いします・・・」


ああ、よかった。電話が通じた。
もう画面がよく見えない。


「お名前と住所をおっしゃって下さい・・・
 症状はどんなですか?
 もしもし?もしもし?・・・」


佳代子は激烈な痛みに耐えて、なんとか携帯を握りしめていた。
汗で電話が滑るが、ここで落としたら、今の自分には見つけられないかもしれない。

名前と住所、部屋番号をなんとか告げる。
症状はうまく言えたか自信がない。

いつも検診を受けていた病院名を告げ、
そこに搬送してくれるよう、とぎれとぎれに頼み込む。


「5分から10分で着く予定です。
 こちらから病院には連絡を入れますから、安心して下さい。
 気をしっかりもって、
 もしもし、聞こえますか?大丈夫ですか?」


電話の声は聞こえていた。
返事ができなかっただけだ。
襲いかかってくる痛みで気が遠くなりそうだ。

あと5分待っていれば、救急車で、病院に連れて行ってもらえる。
病院に行きさえすれば、きっと、この子を助けることができるはず。

お腹の痛みは堪え難く、床の上で体をねじり、転げ回りたかったが、
テーブルや何かの脚にぶつかっては、と
わずかに残った意識のかけらで耐えていた。

急速に寒くなり、体が震えだすと、
痛みに食いしばっていた歯ががちがちと鳴り、
その音を自分が出しているのに動転した。
しっかり口を閉じて、震えをとめようとしたが、激しくなるばかりだ。


わたしはどうなっているんだろう。
赤ちゃんはどうなってしまうんだろう。

あと少し、あと少しで無事に生まれてくるはずなのに。

何がいけなかったのか。
外を歩いたせいなのか、それともすぐに病院に行かなかったせいか。

痛い、痛い!
寒い、寒くて凍えそうだ。たすけて、たすけて・・。
あと5分?5分ってどれくらいだろう?
10分って言ったのかな。

もう5分は経ったのじゃないかしら。

回りはもう真っ暗で何も見えない。
かすかに輪郭が見えるような気がするが、
締めつけてくるような痛みで、視界が定まらない。

痛い、助けて!



ほとんど意識がうすれそうになる中、
突然、佳代子の意識に上って来たことがあった。

ドアにはキーチェーンが掛かっている!
ロックだけなら、管理人の誰かに頼んで解錠することも可能だろうが、
チェーンは無理だ。

ご丁寧なことに、小さなかんぬきまで掛かっている。
あれを外さないと、救急隊の人は部屋に入って来られない。

何とかドアまで行き着かないと・・・。
チェーンを外さないと・・・。


佳代子は床を這って、玄関へと進みかけた。
あたりが暗くて何も見えなかったが、どちらが玄関かは分かっているつもりだ。

痛い、痛い、苦しい、寒い。
それでも進まなければ、ドアを開けなければ、助けてもらうことはできない。

もう少し・・・もう少し・・・。

進んでいるのかしら。
どうしよう、どんどん気が遠くなる。
意識を失ってしまったら、ドアを開けられない。

ドアが開けられなかったら、助けてもらえない。
この子も、わたしも。

ああ、仁、ごめんなさい。
仁のいない間、無事に赤ちゃんを守るだけがわたしの仕事だったのに。

このままドアまで行き着けなかったら、それが果たせない。
どうしよう。どうしよう・・・。


佳代子は腕だけで這っていた。
汗がぐっしょり出て、額から、腕から、手のひらから流れ出て、
ぬるぬると滑るのがわかるほど。
てのひらが滑るので、這って進むにも力が入らなかった。


ドアを開けないと・・・。
どうしてもドアだけは開けないと・・・。

もう、玄関が近いような気がする。

ああ、まずい、気が遠くなって来た。
全身がしびれてくる。
何も見えない。

廊下の向こうがかすかに騒がしいのは気のせい?

音も聞こえなくなって来た。
ドアまで這っていけるかしら。

あと少し、あと少しなのに。
どうしても立てない。

仁、ごめんなさい。

赤ちゃん、わたしの赤ちゃん・・・。
赤ちゃん、ごめんね。
ママはここから立てないの。
どうしても動けない。

ドアを開けなければ、鍵を外さなくちゃ・・・。
ああ、もう少しなのに。



佳代子には、もう何も聞こえなかった。
体中を苛む、激しい痛みに声をあげて泣いたが、
それすらできなくなり、ばったりと動けなくなった。

真っ暗な闇が降りて来た。






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