AnnaMaria

 

続・春のきざし 4

 

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暑い店内にいたせいか、外の空気は思いがけず冷たく、
肺の中がきゅっと締まる気がする。

花見時で、中州の人通りはいつもより多かったが、
この時間はすでにぼんぼりが消えて、街灯だけになっており、
店に入る前と比べ、ぐっと人影が減っていた。

速水は無言で隣を歩いていたが、二人の手はしっかりとつながれている。

昨日より今日、さっきより今。
時間が過ぎるごとにお互いの結びつきが深くなっていくようで、
こうして歩けることがうれしかった。


「どうだった?」

ゆっくり歩きながら、初めて速水が言葉を発した。

「うん。楽しかった」

もっと具体的な言葉を期待しているようで、
恵子の右肩で速水がこちらを向くのを感じる。

「あのね」

恵子も速水に向かい合う。
自然と足が止まってしまった。

「信じられないくらい、ものすっご〜く楽しかった。」

思い切り感情をこめて言うと、速水の顔がぱっと崩れて笑った。

「そっか!なら良かった。
 あそこはオールディーズ中心だし、客層もちょっと高めだし、
 ジョージさんみたいな油断ならないのもいるし、
 岡崎の趣味とちょっと違ったんじゃないかと思って・・」

普段それほどしゃべらない速水が一気に言葉を並べたのが珍しくて、
恵子はぽかんと、速水を見つめてしまった。

「あ、いや。気に入ってくれたんならいいんだ。」

速水は照れくさそうな顔を正面に向けて、また歩き出そうとする。

「うん、とっても。
 連れて行ってくれて、本当にありがとう。」

言いきると、思い切ってぶつかるように
速水の左腕へ自分の腕をからませた。

一瞬、速水が恵子を見たが、すぐさま向き直り、また二人は歩き始めた。





遅い時刻だとは、わかっていた。
だが、どうしても二人で桜の下に並んでみたかった。

明日、速水は行ってしまう。
戻って来た時には、花が終わっているだろう。
ならば・・・今しかない。

お互いの思いが一致して、ライブハウスを出たところから地下鉄に乗り、
この公園にまでたどり着いた。

桜の名所として知られ、昼間はさぞかしすごい人出だったろうが、
夕方よりもぐっと冷え込んで、夜間照明の落ちる10時を回った今、
人通りは多くない。

白い桜が黙って累々と公園を埋め尽くす様は、妖かしの世界にも見える。

満開の桜は夜空を背景に、白く凍った塊に見えた。

足を踏み入れて見上げれば、あたり一面、視界を埋めつくすほどの花びら。
両側から枝が差しかわし、絡み合って、桜のトンネルを作っている。

川風もあって、桜木はわずかにふるえているようだが、
花びらはほとんど落ちず、
花の雲がわき上がって黒い空を点々と覆う。

川面は鈍い鉄色。
彼方にそびえる筈の石垣は、夜闇で今は見えない。

ゆっくり歩きながらも、見事に咲いた樹下では
どうしても立ち止まらずにおれなかった。

「すごい・・・」

樹上から白い花びらが滴り落ち、花の滝を思わせる見事な枝垂れ桜。

びっしりとこぼれ落ちる花の妖艶さに言葉を失う。
桜のこんな表情を見たのは初めてだった。

くしゃんん!

恵子が小さなくしゃみをした。

速水の手がなだめるように、そっと肩に回される。
背中からまた温もりが感じられて、ぼんわりと辺りが夢幻にかすむ。
胸がつまって、痛いくらいだ。

「寒い・・・?」

すぐそばのささやき声さえ、どこか幻のようで、
抱き寄せられた胸の確かさだけが寄る辺となる。
速水の体と、頭上を覆う桜の雲と、さらに広がる黒い大空。

目を閉じて、大きな広がりを目の裏に感じた。

速水のてのひらがゆっくりと、恵子の頬にまわる。
最初に触れられた時、ぴくりと体がこわばったのに、
今はもう心地よさにうっとりしている。

あごを持ち上げる指を感じる間もなく、重ねられた冷たい唇。

少し乾いて、でも十分柔らかくて、そうっと尋ねるように唇の上を動く。


あまい・・・・。


背中をぞくぞくと戦慄が走り抜け、
体をふるわせた時、大きく抱きしめられた。

速水は大きい。速水は温かい。
伏し目がちの顔がきれいで、いい匂いがして、長い指でベースを奏でる。
唇はすごく甘くて、最初は少しぎごちなかったのにすぐ・・・。

速水について今日一日で知ったことを、温かな胸の中で
目をとじたまま、ぼんやりと数えていた。




「いつ、帰ってくるの?」

「一週間くらい。
 戻って来たら連絡するよ。」


川端に並んで、帰り道をしぶっていた二人は顔を見合わせた。
明日からの空虚さを思うと急に息苦しくなり、別の話題を探す。

「速水さん、踊らないって言ってなかった?」

少しとがめるように問いかけると、

「基本、踊らない。
 だが、ジョージさんとかに、無理矢理覚えさせられたんだ。
 ここで働いてんなら、ステップの初歩くらい踏めるようにしとけって。」

速水が恵子の顔を見る。

「あんまり上手くなくて悪かったな。」

「ううん、そんなことない。
 わたし、今まで踊ったことがなかったから、よくわからないけど・・」

恵子の返事にも速水は表情を崩さなかった。

「たまにお客さんと踊ったり・・・したことあるの?」

「・・・ないよ。」

返事するまでわずかに間があったので、
恵子はからかうように微笑んで、

「ホントに?」

「本当だ。女と踊ったのは岡崎が初めてだ。」

恵子がきゅっと眉を上げて見せると、

何だよ、疑うのか・・・。

速水が恵子の頭を捕まえて、無理矢理、自分に引き寄せた。

きゃっ!

「そう・・じゃないけど。だって、慣れてたみたいだったから。」

「あいにく、踊ったのはジョージさんとマイケルと、後は誰だっけな。」

「え〜〜、男ばっかり!」

速水に捕まれたまま、恵子は声を上げて笑った。

「だからさっきそう言ったろ。」

逃げようとする恵子をさらに抱え込んで、ぴったり抱き寄せた。

もう、歩けないじゃない。
歩けるよ、足を交互に出してみろよ。いち、に。いち、にって。
離してくれたら、ちゃんと歩けるのに・・。

じゃれついて歩きながら、バカな台詞をやりとりする。
遠くで酔っぱらいの叫ぶ声が聞こえた。

「離したく・・・ないんだ。
 このまま連れて帰りたいくらいだよ。」

速水の声の調子に、恵子は抗うのを止めた。
ついまた、立ち止まる。

速水の顔は真剣だった。

「ほんとだよ。帰したくない。ずっと一緒にいたい。
 明日から、東京になんか行きたくない・・・。」

恵子の目がまんまるに開かれているのに気づくと、笑って言い直した。

「心配するな。ちゃんと送り届ける。
 帰って来たとき、岡崎が座敷牢に押し込められてたら困るからな。」

「そんなお姫様じゃないわよ。物置ならあり得るけど・・・」

ははは、速水の笑い声が響く。
もう一度手をつなぎ直すと、地下鉄の入り口へと戻って行った。




地下鉄はいつものターミナルに着いた。

「こっからどうやって帰るの?タクシー?」

「ううん、深夜バスで帰る。まだあると思うから・・。」

「じゃあ、俺も乗って行く。」

「ええ、大丈夫よ。速水さん、帰れなくなっちゃうわ。」

「この前、あんな雪でも歩いて戻れたんだ。心配するなよ。」

「明日早いんじゃないの?」

「荷物もほとんどないし、ただ行くだけ。飛行機は10時過ぎだ。」


送ってきてくれる気持ちは嬉しかったが、すでに11時を過ぎて、
今日中に帰り着けるかどうか微妙な時間だ。

母たちもこれほど遅くなるとは思っていなかったかもしれない。
律がうまくなだめてくれているといいけれど。

玄関先に父が仁王立ちしている、と言うことは、
まさかないと思うが・・・。

恵子の顔に色んな不安が表れていたのかもしれない。
速水がぽん、と肩をたたいた。

「本当に遅い時間だから、岡崎が無事に家に着いたか見送りたいだけだ。
 でないと安心して出発できない。
 いいだろう?」

速水の穏やかな笑顔に、恵子も微笑み返し、ゆっくりうなずいた。

どんどん空気が冷え込んで、春というのに息が白く見える。
バス停でしばらく待つうちにすっかり冷え込んでしまった。


バスの座席は半分近く埋まっている。
外と打って変わって、バス内の空気は少しぬるく、眠気を誘う。
二人がけの椅子に速水と一緒に座り、二人の間の見えないところで
そっと手をつないでもらった。

温かく乾いて、確かなぬくもり。

こんな風に座っているだけで、夢のように幸せだった。
ほんのわずか目を閉じて、手触りだけを楽しむ。

耳元で声がした。

「おい、今度こそ、寝過ごすなよ。」

ぱっと目を開けて、速水の顔を見る。
おかしくて、小さく吹き出したが、何も言わずにうなずいた。

夜のバスから見える光景など、決まりきっている筈なのに、
この季節だけはあちこちの街灯に、雲のような桜花が白くうきあがり、
桜が実に街のあちこちに植えられているのを痛感する。

ふだんはひっそりと地味な場所が、1年に一度だけ、
表舞台に現れて、華やいだ注目を浴びるよう。

バスはごとごとと闇の中を進んで行く。
家に帰るのではなく、どこかに向かっているようだ。

いつか、こんな風にふたりきりで旅立てるといいのに。

速水の隣にいながら、恵子はひとり、勝手な妄想に浸っていた。




ワンマンバスの無機質なアナウンスが鳴りだし、
恵子の下りるバス停を告げた。

ちらりと速水を見上げ、握っていた手にほんの少し力を入れた後、
ゆっくり手を引き抜く。

バスが止まってドアが開くと、二人は急いで下りた。



いつも一人で立つバス停に速水といるのが不思議だ。
見慣れ過ぎた景色を見ると、にわかに家の様子が不安に思えてくるが、
今夜はどんなことも覚悟の上。

どんなに叱られようと、今日の楽しさを損なえる筈がない。

「速水さん・・・」

時間の遅いのを気にして、少し早足の恵子に付き合っていた速水が
こちらを向いたのがわかる。

「今日は本当にありがとう。」

くす・・という音が聞こえたから、きっと微笑んでいるのだろう。

「楽しかった。きっとずぅっと忘れない。」

言い終わらないうち、あっと言う間に抱きしめられた。
びっくりして足が一歩あとずさるが、速水は離さない。

「好きだよ」

抱きしめられた頭上から聞こえてきた。
胸の中から見上げても、蔭になって表情はよく見えないけど、
瞳が黒く輝いている。

返事をしようとしたが、声が詰まって言えない。
仕方なくもう一度、速水の胸にしがみついた。

背中に回る腕が強く締まる。

「帰ってくるまで、待っててくれよ。」

「待ってるわ・・」

その言葉を聞くと速水はようやく腕を解いて、また並んで歩き出した。

家に近づくにつれ、だんだん緊張してきて、手をつなぐのも止めてしまう。
家まであと電柱3本分ほどの距離で恵子は立ち止まり、
速水に向き直った。

「送ってくれてありがとう。
 ここまでで・・・」

速水がかすかにうなずいた。

「ああ、気をつけて。
 おやすみ。」

「おやすみなさい。」

返事をすると、速水はぽんと恵子の腕に手を置いて、その手を挙げると、
背中を向けて、バス停の方角へと戻って行った。

しばらく背中を見送ったあと、急いで家に向かった。


玄関の手前で立ち止まって深呼吸し、「ただいま」を言ったものか、
黙ってそうっと入るべきか、を考えた。

時刻はすでに12時を回ってしまった。
「午前様」という言葉が浮かぶ。

と、どこかでカラカラと窓の開く音がする。
2階を見上げると何故か恵子の部屋に明かりが灯り、
玄関に向いた窓から、明かりを背に黒い半身が乗り出している。

律だ・・・。

恵子は律を見上げて、一生懸命見つめると、
律が何やら唇に人差し指を当てている。

しぃ〜〜っ

かすかな声も聞こえる。

黙って入って来いってことね。


了解の印に手を振り、門柱のかんぬきをそうっと外して、
元通りにすると、抜き足差し足で玄関のドアに手をかける。

できるだけ静かにドアを開け、足音を偲ばせて玄関に入ると、
とにかく音を立てないように靴を脱いだ。

まず自分の部屋に戻るのが肝腎だ。

玄関を抜けて階段を手探りし、明かりをつけないまま、そろそろと階段を上がる。
自分の部屋にようやっと滑り込むと、律が窓を閉めたところだった。

「お帰り、姉貴。」

ちょっと面白そうに弟が笑う。


「ただいま。お父さんたちは?」

「ちょっと前に寝ちゃったよ。11時過ぎだったかもしれない。
 今は・・・」

わざとらしく部屋の掛け時計を見ると、12時7分だ。

「深夜バスで帰ってくるなら、この位かなって見当つけてたんだけど、
 ちょっと遅かったね。普通ぎりぎり12時前に帰れるのに。」

恵子は顔が赤くなっていませんように、と祈った。

「これでも一生懸命帰ってきたんだけど。」

「そうだね。明日、お母さんには12時前だったって言っとくよ。」

「助かるわ・・・」

正直に感謝すると、どっと力が抜けて、ベッドにぺたんと座り込む。

「あ、姉貴、このCD借りていくね!」

律の手には、ちゃっかりと最新のCDが握られている。

「何でも好きなのを持ってって・・・。」

ため息をつきながら、恵子はドアが閉まるのを見送った。


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