ボニボニ

 

My hotelier 107. - Mr.ヴァレンタイン - 

 




その朝 シン・ドンヒョクは むっつりと オフィスのビルに着いた。



車を置き エントランス・ロビーに歩み入る。
コートの襟を立て アタッシュケースを片手に コツコツと 大きく歩を進める。
その姿に インフォメーションの受付嬢が慌てて立った。

「Mr.シン!」


真直ぐ前を見たまま立ち止まった男は 一瞬 眼を閉じる。
それから ゆっくりこちらへと 射るような視線を流す。

「・・・・。」

「あの お・・はようございます。」
「・・・・Mornin’」

にこりともせずに挨拶するドンヒョクは そのままエレベーターホールに消えた。



「はぁ・・・。」
ぺたん と椅子に崩れた受付嬢に 同僚が呆れる。
「なによぅ。 わざわざ 声をかけておいて渡さないなんて。」
だって あんなに機嫌が悪そうな彼に チョコなんて渡せないわよ。
「そりゃ・・まあね。」

だけど 何だってあんなに むっつりしていたのかしら。
「大変な仕事でも 抱えているんじゃない?」


混んだエレベーターの中でも 
ドンヒョクの周りには 空間が出来ていた。
乗り合わせた女達の眼は 一隅に 憮然として立つ長身の男を盗み見る。


「・・・・・。」
「・・・・・。」

ひそめた眉根。 氷を飲み込んで静まりかえった口元。
誰の介入をも 厳然と拒んで レイダースが立ち尽くしていた。


♪ポゥン・・・

階数表示をちらりと確認して うつむきがちのドンヒョクが去ると
エレベーターの中の女達が 一斉にため息をついた。
「は・・あ・・。」
「酸欠で 死ぬかと思った。」
「よりによって なんで今日は ああも機嫌が悪いの ・・・彼?」

渡す機会がなくなっちゃったじゃない。
「みんなで おやつに食べようか・・・チョコレート。」

女達は もう1度 深々としたため息をついた。

------


ジニョンは あの 約束を忘れたのだろうか?


“その時まで ホテルに滞在してくれるなら・・・。”

ぼくは チェックアウトをせずに ソウルホテルで 今日を迎えた。
甘い物は苦手だけれど ジニョンがくれる物ならば 
喜んで食べる決心もしていたのに。


「・・・・・。」
甘い物が苦手と言い過ぎたせいで 遠慮したのかもしれないな。

「・・・・・。」
チョコレートが好きな アイツには ・・・贈るのだろうか?


ハン・テジュン。
ジニョンにとって アイツは“上司で親友”だ。
好物となれば “親愛の気持ちで”贈るのも 不思議はない。



もちろんジニョンは 疑いようもなく 僕を愛している。

でも今朝 彼女は 僕にチョコレートをくれなかった。

-----



・・・ボス? ジニョンさんとケンカか?

「どうして ケンカしなくちゃいけない? 全て OKだ。」
「じゃあ 何故 そうしかめっ面しているんだ?
 スタッフが チョコレートを渡せなくて 困っているぞ。」

チョコレート? ここはオフィスだ。

不機嫌の原因に触られて ドンヒョクの眼が暗くなる。
「業務に邁進してくれることが 何よりの贈り物だ。 そう言っておけ。」
「わかってるよ。 皆 今日は ボスを早く帰すようにがんばっているんだぜ。」


不思議そうに ドンヒョクの眉が上がる。
どうして・・・ 僕を早く帰すんだ?
「は? だから ヴァレンタイン・デーだぞ? ジニョンさんがきっと家で
 夕食を用意して待っているだろう? それとも外でデートか?」
「え?・・・」



思えば フランク・シンという男は
恋人と ヴァレンタイン・デーを 過ごした事がない。
彼にとって 「その日」というのは 
シューティング・ゲームの様なものだった。

ありとあらゆる所から 女達が現れて リボンの包みを押し付ける。


ハンターのとって何の興味もない 不思議な行事。
ヴァレンタイン・デーになると 女達は皆 我先にドンヒョクに接触して 
あわよくば 何らかの結果を得ようと やっきになるのが常だった。


―だから 今日は真っ先に ジニョンが来ると思い込んでいた。


「・・・そうか。 ジニョンは別に 急ぐ必要がなかったんだ。」

-----



サファイア・ハウスの玄関先に シルバーメタリックの車が 滑りこむ。
すらり と降り立つドンヒョクは 2,3歩あるいて立ちどまった。


“僕は 来年に期待しますよ。”
“え?”
“ヴァレンタイン・デー  ・・待っていてもいいかな?”


本当に ジニョンは 家で僕を待っているのだろうか。
ドアの前にたたずむ彼は どこか 頼りなげな表情になる。

―まいったな・・。 結婚しても このざまか。

ふっと 笑ったハンターは 思い切るようにドアを開けた。
「・・・・ジニョン?」

エントランスホールを抜けて リビングへ。 愛しい人の姿が ない。
伏目がちに咳払いをして ダイニングへ行くと
きれいにセッティングされたテーブルが迎えてくれた。

「ジニョン?」

「オモ! ドンヒョクssi。」
早かったのね。 慌てるジニョンが キッチンから覗く。
「今 サラダをね・・・。」

つかつかと歩み寄るドンヒョクは いきなり妻を抱きしめる。
「きゃっ あの・・?」
サラダを・・ドンヒョクssi。 サーバーを片手に持ったまま 胸に埋まるジニョンは
戸惑いながらも 小さく首を傾げて ハンターの情熱的な唇を受けとめた。

-----


「はい・・ これ。」

掌に乗る 小さな包み。
「ふふ。 “私の気持ち”です。」
ジニョンと箱を交互に見つめて ドンヒョクが もじもじ包みを開ける。

つややかに光る 黒いハート。
“私の 気持ち”

ドンヒョクが みるみる笑顔になった。
一粒 口に含む。 最上の恋を溶かして煮詰めたような 甘やかな苦味が舌に拡がる。
「お・・・・。」
なんて 美味だろう。 
思わず口元がほころぶのを 羨ましそうにジニョンが見ている。


・・・ああ そうか。

ヴァレンタイン・デーのチョコレートは こうする為に 男に 贈られるんだ。
もう一粒を放り込む。 おいで ジニョン。 君にもあげよう。
「ん・・・。」

恋人の口に チョコレート・トリュフが溶ける。


貸し出しした物を 取り戻しに行くと 奪われまいとジニョンの舌が逃げる。
―貸しただけだぞ。 
容赦のない取り立てにも 彼女は 意外な抵抗を見せる。


そして2人の間でもみ合ううちに 小さなトリュフは 消えていった。
「は・・・。」


では もう1度。

甘い物嫌いのハンターが 上機嫌でトリュフをつまむ。
可愛いジニョンの大きな眼が ドンヒョクの指先を うっとりと見る。
チョコは媚薬と言うけれど ・・・なるほどね。
僕の唇から渡される甘い誘惑を ジニョンが わくわく待っている。

「ジニョン・・? あっちで食べようか?」
「え?」

ハンターが ちらりと寝室を見る。 ジニョンの頬に朱が走る。
それでも 今日はヴァレンタイン・デー。
なめらかに白い腕が伸びて 連れて行って と首にまわった。

-----



「ねえ・・ ジニョン?」

ドンヒョクは 横たわる恋人の背中を抱いて ほてった肩先に 唇をつける。
「その・・・ 彼にも チョコレートをあげたの?」
「誰?」
「・・・・Mr valentine.」

言った途端に後悔する。 僕は 馬鹿だ。


「ドンヒョクssi?」
「うん。」

「教えて 旦那様。 今の私のMr valentineは 誰?」
わざと怒った大きな眼。 ドンヒョクが ふ・・と笑みをこぼす。
「・・・・僕?」
そうでしょう?  社長にはあげたわよ。

「イ先輩と一緒にね。 ・・・気になるの?」
いたずらそうなジニョンの顔に ドンヒョクの胸が 温まる。
「すまない。」


あなたにあげたのは わざわざショコラティエに作ってもらった特別製よ。
「すごく 美味しかったわ。 ね?」
「それでなかなか返さなかったんだな。」

ベッドサイドの パッケージに ドンヒョクの指がまた伸びる。
一粒食べて ちらりと見ると
あ・・ん と 可愛い唇がねだっている。


ひどいな My hotelier。
甘い物の苦手な僕が 美味しいと思うチョコなのに
結局 そうしてねだられて ほとんど 君の口の中じゃないか。

―まあ いいか。 またホテルへ買いに行こう。

華奢な頬を掌で包んで 唇にそっとチョコを押し込む。
いそいそやってきた舌をつかまえて チョコと一緒に うっとりと舐める。
―これからは 僕が Mr valentineか。
 僕とすれ違う人には カカオと 君の香りが ・・するのかな。


サファイア・ハウスの ヴァレンタインナイト。

今日だけは 甘い物好きのハンターが
愛しい人の唇を 満足そうになめていた。

 ←読んだらクリックしてください。
このページのトップへ