ボニボニ

 

My hotelier 173. - 眠れぬ森のドンヒョク - 

 




サファイアハウスの早朝。  ドンヒョクは 消耗し切っていた。 



元来ショート・スリーパーである彼は 睡眠不足などものともしない。

・・はずだった 2011年までは。




2012年の1月。

ドンヒョクとジニョンに待望の第一子が産まれたとき 
彼の生活環境は一変し ドンヒョクは 思い知ることになった。


眠る時間が短いこと自体 大した障害にはならない。 

ドンヒョクとって わずかな睡眠で日々を送るのはとても容易だ。

しかし 自分が寝ようと決めた時間に 突然揺り起こされるということ
眠りを自分でコントロール出来ないということが つまりは問題なのだった。




・・ホギャア・・・  ホギャア・・・  ホギャア・・・

“!”



ドンヒョクの手が時計を探り 一瞬の後 音がアラームではないことに気づいた。

ゆっくりベッドへ起き上がった彼は 眼をつぶったまま大きく息を吸う。
ジニョンはひと足早くベッドを抜け出て 赤ん坊を抱き上げていた。



「ジニョン・・僕がやろう」

「オモオモ!ドンヒョクssi。 いいのよ寝ていて」

「・・ぃや 君は疲れている。 今回は僕が替わろう」
「だめよ。 ドンヒョクssiはお仕事があるんだもの」
「気にしなくていい。 仕事に 支障はない」


「だめ。 それに今回はおっぱいにするから」

「それは・・・替われないな」



ふわふわと泣いている赤ん坊を抱いて ジニョンがベッドへ戻って来た。

赤ん坊に乳をふくませる妻を ドンヒョクは眠そうな眼でうっとりと眺める。
見るうちに奇妙に切なくなって ドンヒョクはジニョンに腕をまわした。


「なあに?」

「君らは 2人の世界になっているぞ。 僕も参加させろ」
「ま」




赤ん坊は少し休み 思い出したようにまた んくんくと乳を飲む。

とろけるように悠長なペースに ドンヒョクはあくびを噛み殺した。

「ドンヒョクssi? あなたはただでさえハードワーカーなのに 毎晩これじゃあ。
 やっぱり私達しばらくの間 寝室を分け・・」

「Never」 



その話は すでに決着したはずだ。 ドンヒョクは冷たく眉を上げた。
僕は 絶対 君のいないベッドでなんか眠るつもりはない。

「アンジーは 僕達2人の娘だ。 君と同様 僕だって 育児する権利と義務がある」 
「ドンヒョクssi・・」


「僕は 睡眠不足なんかじゃない」



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ボスが 座ったまま寝ている。


オフィスに入って来たレオは ドアを開けて立ち止まった。

シン・ドンヒョクが椅子にまっすぐ腰をかけ PCに向かったまま固まっている。
モニターに表示された書きかけのレポートには 「k」が延々と打たれていた。

「kkkkkkkkkkkkkk・・か 凄い三振の数だな」



「?!」

「あぁしまった。 すまないボス 起こしちまった」


「何のことだ? 僕は 寝てなんかいない」
「そうだよな。 ボスはちょっと ノーヒットノーランを達成していただけだ」
「・・・」


レオを無視してモニターに眼を落としたドンヒョクは 数ページにもなっている
kの羅列に 舌打ちをしてむっつりデリート作業を始めた。


「・・・」

「なぁボス? この後はソウルホテルのコンサルだろ? キャンセルして
 少しソファで眠ったらどうだ?」

「必要ない。 だいたいジニョンの産休中に ホテルが業績を落としたりしてみろ。
 彼女のことだ。 育児休業を繰り上げて現場復帰すると言うに決まっている」 
「ハン・テジュンは優秀な経営者だぜ。 任しておいても平気だろう」
「・・・」



レオが ゴクリと喉を鳴らした。 眼の底を光らせてドンヒョクがにらんでいる。

ドンヒョクは書類を取りまとめると アタッシュケースを閉めて立ち上がった。



「なるほど ハン・テジュンは有能な社長だ」

「そ・・うだろ?」
「だけど ソウルホテルのストックホルダーは 僕だ」



僕のものだ。  ジニョンも ジニョンの愛するホテルも。

「テジュンに 任せきりにする気はない」


冷然とドンヒョクは言い放つと 大股でオフィスを出て行った。

後に残されたレオは テジュンの名を出した自分のうかつさに肩をすくめた。


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テジュンがソ支配人からの電話を切ると同時に 秘書がドンヒョクの来訪を告げた。

秘書に続いて入って来たドンヒョクを見て テジュンは危うく吹き出しかけた。


“こりゃまた・・ 随分な育児疲れだな”



一分の隙もないスーツ姿のせいで ドンヒョクの疲労が際立って見えた。

睡眠不足で荒れた肌。 眼の下に色濃く浮かぶクマ。
そして何より 血走って ウサギのように赤くなった眼。


「・・・」

「これは理事。 ご多忙中を 恐れ入ります」
「いえ。 それでは早速 今月の報告を伺いましょうか」



その前に・・

「ちょっと 先に片付けたい件がありまして。 恐れ入りますがしばらく
 えーと5分程度ですが ここでお待ちいただけないでしょうか?」

「構いませんよ。 何かトラブルですか?」
「いえ。 ご心配頂くようなことではありません。 ではちょっと失礼して」
「どうぞ ごゆっくり」


社長室のドアを閉めたハン・テジュンは いたずらそうに秘書へ微笑んだ。

「しばらく 誰も入れるなよ」


「はい?」

「中へは いっさい誰も通さないように。 電話も鳴らないように切っておきなさい。
 こうでもしないとあの頑固者は 倒れるまで休もうとしないからな」
「ま・・!  ふふふ 解りました」


テジュンは 悠然と歩き去った。 

部屋の中のドンヒョクは テジュンをじっと待ち続けていたが
やがて 睡魔に引き込まれるように ソファに座ったまま眼を閉じた。




ソウルホテルの屋上で テジュンはタバコを吸っていた。

「まったく 世話の焼ける奴だ」


クールな顔をしているくせに いつも呆れるほどに全力で。
もう幸せを手に入れたっていうのに 今度はがむしゃらにそれを護ってやがる。

「・・まったく 何が“ちょっと休息を取らせてやって”だ。休息くらい自分で取れ」


さあて それでは仕事に戻るか。 テジュンはタバコを携帯灰皿へ入れた。

あんな奴だから放っておけなくて ジニョンは行っちまったんだ。チクショウ



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1時間して眼を覚ました時 ドンヒョクは生気に満ちていた。

きょろきょろと周囲を見回したドンヒョクは うつむいてメガネをそっと上げる。
社長室を出ると カウンターの秘書が社長からの伝言ですと言ってメモを渡した。


  『コンサルは 明日に延期をお願いします。
   家長に求められる最大の条件は 元気でいること』


「・・・」

「社長は火急の用が出来まして。 本当にすみませんと申しておりました」
「・・・」


ありがとうと ハン社長にお礼を申し上げてください。世話をかけてしまったな。

ドンヒョクが柔かく微笑んだ。 その笑みを 秘書がまぶしげに見た。 


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ソウルホテルのエントランスロビーは午後のひと時 穏やかだった。

ドンヒョクは闊達な足取りで ロビーを出口へ向かっていた。


その時 長身の理事の背中に 一人の女性が駆けよった。
ポニーテールに髪を結んだ フローリストの女性だった。



「ぁ・・あの 理事!」


「?」

「お帰りですか? あの! どうぞこの花束をお持ち下さい」
「・・?」
「ええと ガーデナーからです」
「!」


ドンヒョクの眼が大きくなった。 見れば フローリストのその女性が持つのは
明るいオレンジピンクのバラ 『My Hotelier』の花束だった。

「理事は その 今年はお忘れみたいだから」

「・・・?! 今日は 何日?」
「5月16日です」
「!」



“理事♪ あちらにお迎えですよ”

フロントスタッフが カウンターの中から明るい声をドンヒョクへかけた。
スタッフの示す方を見たドンヒョクは ぽかんと小さく口を開けた。



ジニョンが ロビーに立っていた。 胸に娘を抱いていた。

ようやく首がすわったアンジーは 珍しそうに周りを見ている。

チェック・インから7年が経ち ドンヒョクには 家族が出来ていた。



「理事! どうぞ花束を。 ちゃんとトゲは抜いてあります」

「・・ありがとう」




ジニョンは アンジーに笑いかけ その笑みをドンヒョクへまっすぐ向ける。
ロビーに散らばるホテリアーは 1日遅れのイベントに笑っている。


花束を抱えたドンヒョクは 2人の元へと 歩き出す。



「チェックインを お願いできますか?」

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