ボニボニ

 

愛しのプロフェッサー 11

 




プロフェッサーは とても柔和だ。


その行動からは気難しさや頑固さなど 普段 ほとんど感じられない。
だけど イ・ジウォンというその人は 決して柔和なだけの人ではなくて

一旦 彼が意志を見せたら ・・・それは 誰にも止められない。 



“僕はもう2度と 愛する者の大変な時に 間に合わない事はしたくないんです”

プロフェッサーが言ったとき 私は 瞬時に理解した。
表面こそ柔らかだけれど この人の内側は 途方もなく堅固で熱い。


・・・これが 教授の「本気」なんだ。

まったく 非常時にも関わらず 私は彼の見事さに見とれた。
教授は愛する人の為に これ程までに 本気になれる。
彼に愛される その人が 胸の痛むほど羨ましいけれど

プロフェッサー・・

私は あなたの真摯な想いが 遂げられたらいいと思います。

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一時間もしないうちに 弁護士という男が現れた。

小柄な彼は現れた時 人懐こい笑みを浮かべていたけれど
プロフェッサーをひと目見ると 居住まいを正して挨拶をした。

「先生からお呼びがかかるとはね。 難しいヤマなんですか?」
「いいえ」
「?」
「ですが 絶対に退けないゲームです」



研究発表は もう5日後に迫っていた。

だけど教授は何があっても 日本行きの便に乗る。

プロフェッサーを止められるものは この世のどこにも無いだろう。
これから各方面へ連絡して 会議が教授不在の発表になる告知と
それに伴う予定のキャンセルが 私の 早急な業務になる。


もう それはいい。 想定しうるアクシデントの1つ。

研究内容は学生達が プレゼンテーションにまとめているから
スティーブンス教授の進行で発表することに 大きな支障はないはずだ。 
だけど・・


私はまとめた髪を解き 勢いよく振って 気合を入れた。
ノートパソコンを抱えて 学生達が作業するオフィスへ向かう。

私が前に立った時 彼らはあんぐりと口を開けた。
「想定・・質問集・・・?」
「ええ」


あなた達は この名門プリンストンで 
プロフェッサー・ジウォンに薫陶を受けている優秀な学生でしょ? 
「教授の発表に対して想定される議論には どんなものがある?」

「でも プロフェッサーが不在となれば・・」 
・・それはスティーブンス教授が 適当に答えるんじゃないですか?
「想定質問があれば“ジウォン教授が”答えられるわ。 質疑応答はあなたがするの」
「?!」「!!」「!」


「理由は “教授が出先から 慌てて送ってきたものなので 
スティーブンス教授にお読みいただけるよう まとめることが出来なかった”のよ」
「ワォ・・」
出発前と機内の移動時間を使って 教授に答えを頂いて 私が資料にまとめます。


学生達は私の提案を 即座に理解したようだった。

もとより彼らは 他人の威を借るスティーブンス教授を嫌悪していた。

「Ms.ユナ。 すげぇこと思いつきますね」
「想定質問の的が外れたら 役に立たないの。考えられる?」
「どうかな? 僕達はプロフェッサーの薫陶を受けている 優秀な学生だけど」

「・・じゃあ それを証明するチャンスね♪」

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プロフェッサーはその日 夜まで 小柄な弁護士と打ち合わせていた。

私は私で 各方面へ教授欠席の連絡と アポイントのキャンセルに追われた。



「Ms.ユナには大変ご迷惑をおかけします。 すみません」

もう夜半近く。 大学から帰る車の中で プロフェッサーがぽつりと言った。
方々へ電話越しに頭を下げている貴女を見ると 申し訳なくて。
「私は秘書です。プロフェッサーのお決めになった事に対処するのが仕事です」

「ですが・・。 本当に すみません」


残る者に気が引けるのなら お願いが1つ あります。
「?」
ステアリングを握る片手で 私は ファイルを彼の膝へ渡した。

「想定・・質問集?」
「口述筆記で 私がタイプします。今夜いっぱいでお答えいただけないでしょうか?」
「・・・Ms.ユナ」

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その夜。  私はこの家に来て初めて プロフェッサーの書斎へ入った。

「どうぞ。 僕の机に座ってください」

息子以外でここへ入るのは Ms.ユナが初めてかもしれないな。
以前 ハウスキーパーをお願いしていた時も ここは別にしてもらいました。


本・本・本・本・・。 溢れるばかりに詰まれた書物と 
ずらりと並んだ PCや機器類。
そこは 大学の教授室をパワーアップした混沌と 奇妙な調和を見せていた。


・・まさにプロフェッサーの 部屋だわ。

私がうっとり室内を見回している間 教授は 頭を掻いていた。
整頓しなきゃと思うんですけど つい 別の事に熱中してしまって。

「とは言え 他の人に片付けられると判らなくなるし・・」
「・・・」
上目遣いに私が見ると はっとしたような教授と眼が合った。
照れたような笑い顔。 白い歯が ふいに口元で咲いた。

「Ms.ユナなら・・・上手に片付けてくれそうですね」
「!」

プ、プ、プ、プ、プロフェッサーったら・・・それは 凄い殺し文句です。



残された時間がなかったので 私たちは 作業を急いだ。

学生達が考えた問いに プロフェッサーが答えてゆく。
教授は時に 説明のために 膨大な数式を書き連ねたけれど
スキャナー付きホワイトボードに書いてもらい 画像データにして取り込んだ。


プロフェッサーに質問をしながら 私は 鳥肌が立つ思いをした。

大学卒業程度の知識しかない 私にさえもはっきり判る。
物理の地平に立った時 イ・ジウォンは 間違いなく天才だった。

プロフェッサーは歩いたり 椅子に座って脚を組み
考えを 言葉にまとめたりする。
彼の口から出てくる言葉は あたかも天上の講義だった。


「Q18、・・2-v1の計算結果について、物理学的視点からのコメントを下さい」
「あはは! それはロイの考えた想定質問でしょう? そうだね」

これは とマーカーを取り上げると 教授は恐ろしい速さで数式を書いた。

書くうちにプロフェッサーのペンは滑り 文字が どんどんすっ飛ばされる。
恍惚とさえ見えるプロフェッサーは 数式と戯れる神にも似て 
溶けるように微笑むその横顔を  私は あ然と見つめていた。


モーツァルトみたい・・

天才アマデウス・モーツァルトの書いた楽譜には 
音符の飛んでいる部分が多いと聞いた。
彼の内なる名曲の溢れ出すスピードが速すぎて 記譜が 間に合わないのだと。


今 教授の中にも完璧な数式が 天啓のように溢れていて
ペンを握ったしなやかな指は それを筆記するのが間に合わない。

それどころか彼は 数式の途中で 更なるアイデアを思いつき
「あ! 考え方としては こっちの方もあるかな・・」などと
まだスキャンしていないボードの数式を あっさり消そうとするものだから
私は 時々悲鳴を上げて 彼を止めなければならなかった。


全ての想定質問を終えた時 私は 息が切れていた。
彼の発する強大なパワーに 失神しそうな心持ちだった。

教授は まるでグラン・パド・ドゥを踊り終えたプリマの様に

もう終りですか? と晴れやかに笑い 疲れのかけらも見せなかった。

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教授が発つ日。 

私は 教授の固辞を押し切り ニューアーク空港まで見送った。


小柄な弁護士と2人分のチケットを渡すと 教授は 少しうつむいた。
「いろいろご迷惑をかけてしまうけど・・・」
「プロフェッサー?」
「はい」


どうぞ 真っすぐお行きください。

「後を気にすることはありません。 プロフェッサーの望むようになさってください」
「Ms.ユナ」

ふわり・・ と何かが眼の横をかすめた。
何と確かめる隙もなく 私の身体は 大きな胸の中にいた。
背中にまわる腕が 力強く私を教授に引き寄せる。

プロ・・フェッサー・・・?
私はまるで 自分の心臓を飲み込んだみたいだった。



「ォ‥秘書の方だと思っていましたが Ms.ユナは“そういう人”でしたか?」

小柄な弁護士が 私達を見て 驚いたような声を上げた。
私を抱きしめていたプロフェッサーは 困ったように身体を引いた。
「違います! す、すみません。 つい・・・」

「い・・ぇ・・。 どうか お気をつけて行ってらしてください」



搭乗ゲートへの入口で 教授はそっと振り向いた。
愛する人へと飛んでゆく彼は 信じられない程 きれいだった。


神様・・・。  どうもありがとう。  

こんなにも 愛しい人に逢わせてくれて。


同じ時間に この地球に いられることが幸せだなんて
そんな気持ちになれる人に 出遭えただけで充分です。 



私は 小さく手を振った。
 
唇を噛んで笑った彼は きらめく笑顔で 手を振った。

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