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再生-イタリア紀行 with J #2 <1日目 / ジェノバ、夜②>

 

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三人のチェックインが終わり、ルームキーを渡される。
レセプションのスタッフが、であなたは?と彼のほうに顔を向けた。
『実は』とケイが言いかけると、
『ぼくがはなします。だいじょうです。へやにいってください。それからしょくじしましょう。
30ぷん、でだいじょうぶですか。ここでまってます。』

それからスタッフに向き直り、
『こちらのレストランのテーブルを7時半から4名で予約したいのですが。』
と英語で告げた。
そのスマートなやりかたに、もうやぼなことを言うのはやめようと、ケイはことばを呑み込んだ。

『わかったわ。じゃ30分、待っててね。』
しかし、ここにレストランがあることをよく素早く見て取ったものだ。
なかなか名の知れたレストランであることを、知っていたとも思えない。

『ドレスコードは?』
エレベーターに乗り込むとハルエが聞いてきた。
『うん、まあちょっとおしゃれなレストランだから、それなりに。でも彼があれじゃあね。』
『ケイさん、でも彼、下はジーンズだけど靴はスニーカーじゃないし
Tシャツの上に一応ジャケットもはおってるし、あのルックスだから見栄えがするし、
まあいいんじゃないの。』
『あら、リエちゃんったら、ふさぎこんでいると思ったら、けっこうしっかり見てるじゃないの。
おめかしで遅れないでね。』

二人が妙にうきうきしているのを、ケイは感じていた。
でも彼女たちはたぶん知らないだろう。韓国の彼のことを。

ハルさんはそもそもテレビドラマなど見ない人だし、
世間で騒がれていることの全てに関心がないのだ。
むしろそれらを意図的に避けて暮らしている。
リエちゃんは時間があればピアノを弾いているか教えているか、
それ以外はプールとジム通いに全エネルギーを注いでいる。
そこに恋をする時間と、そして失なった恋を痛む時間が加わったのだから、それどころではないだろう。

『ケイちゃん、なによぼんやりして。着る服をまよってるの?』
ハルエがケイの顔の前で手をひらひらとさせた。
『ちがうわよ、さあ着いた。ふたりとも遅れないでね。』
『べーだ、いつも遅れるのはケイさんのくせに。』
それは成田を出てから初めて耳にするリエの明るい声だった。

リエに憎まれ口をたたかれたからではないが、ケイはいつもより急いで支度をした。
スーツケースをあけ、必要な衣類だけさをっとベッドに広げる。
シャンパンゴールドのノースリーブニットのトップに、
黒を基調にオレンジとモスグリーンの絵の具を大胆に散らしたような、
ひざ下の丈のシルクプリントのスカートを合わせることにする。

シャワーを浴び、化粧をすると20分が経過していた。
ゴールドのミュールに黒のビーズ刺繍のハンドバッグ、
そしてオレンジ色のシルクタフタのストールを手に持った。

ロビーに下りて彼の姿を探す。

『はやかったですね。』
背後から声をかけられて振り向くと、
黒にブルーグレーのストライプが細かく入ったスーツ姿のジェイが立っていた。

白のシャツ、すこし長目のエリ先を黒のボタンがとめている。ネクタイはしていない。
サングラスを細身の茶色のふちのメガネにかえて、
肩に触れるくらいの長さの濃い栗色の髪を、ふわっとながしている。
ぶしょうひげも崩したスーツ姿によくあっており、エレガントさのなかにワイルドな魅力が加わっていた。

はだけた胸元からクロスのネックレスがのぞいている。
マスコミで時々目にした彼の姿が、ケイの脳裏に浮かんで消えた。

『あなた、どうしたの。どこで着替えたの?』
『おどろきましたか?』
『まさか…』
『ええ、ちょうどよかったんで、ここにへやをとりました。』

思いがけない展開ではあったが、ケイは彼がそうするだろうと、なぜかわかっていたような気もした。

『ケイさん、きれいですね。そのスカーフも、みなとのひかりみたいでよくにあってます。』
『あ、ありがとうジェイ。ケイでいいわよ。』
『でもおともだちもケイさんとよんでますから。』
『わかったわ、好きに呼んで。それにしても二人とも遅いな~。』

おりてきて1分もたっていないから、まだ約束の時間にはなっていないのを、ケイは忘れていた。
そんなケイを見てジェイは微笑を浮かべた。

『バーでなにかのんでますか?』
『そうね、そうしましょう。ちょっと私レセプションにメッセージをのこしてくるわ…』
『いやぼくがいってきます。』

ケイは左手をポケットに入れ、優雅な動きで歩く彼の姿を目で追った。
なぜか胸がつまって、でもそれを気取られたくなくて後ろを向き、バーに向かって歩き出す。

すっと隣にジェイが並んだ。腕をとられているわけでも、肩をだかれているわけでもないのに、
彼の肩の内側に自分がすっぽりと入ってしまったような気がした。
エスコートされている、日本の男にはけっして感じたことのない感覚を、ケイは久しぶりに味わった。

二人がバーに入っていくと、バーテンダーが笑顔を浮かべ、ボナセーラ(こんばんは)と声をかけ、
目でバーカウンターに導いた。

ボックスにすわっている中年のカップルが数組、二人をちらちらと盗み見ている。

『なんにしますか?』
マティーニに、ブルーマルガリータじゃなくって?と言う言葉が浮かんだ。
しかし口をついて出たのは
『ベリーニ、お願い』だった。

『それはどういうお酒ですか?』
『ヴェネツィアで生まれた発砲ワインと白桃のカクテル。あなたはどんなのがいい?』
『うーん、あまりあまくなくて、すっきりしたのがいいです。イタリアらしいので。』
『じゃ北イタリアでよく飲まれてるスプリッツァーを試してみて。』

『乾杯』
『かんぱい』
『何に乾杯なの?』
『ミラノのあらしと、わからずやのかかりいんに。』
『は、きざね。いいわ、じゃわたしも。
オレンジ色の港と、ジェノバの夜に。』
チンとグラスをあわせる。

『おいしいです。ワインベースですか。』
『そう、白ワインをソーダで割っただけ。ちょっとそっけなかったかな?』
『いや、きにいりました。ぼくはカンパリぐらいしかしらなかった。あのあまったるいのよりすきです。』
『いつもはどんなのを飲むの?』
『マティーニとか、マルガリータとか。』

『ジェイ…』
『なんですか?』

そのときケイの頭に浮かんだ質問を、ケイの心が止めた。

その質問を口にしたとたん、空港での印象的な出会いや、
ここまでさりげない会話でつないできた今夜の様相ががらりと変ってしまいそうで、
ケイはそれを惜しんだ。

『ううん、なんでもない・・・
そうだ、ミラノに行く予定だったのをなぜ止めたの。行かなくていいの?』
『ああ、ぜんぜん予定なんかなかったんです。はじめてのイタリアだからまずミラノかなって。
でもジェノバに降りたら、無性にこの街を歩いてみたくなった。
コロンブスのジェノバですよね。どんな街だろうって。』

いつしか彼は英語と日本語をまぜて話していた。
『ジェイ、私の日本語ぜんぶわかる?英語のほうがいい?』
『だいたいわかります。でもときどきわからない。
話すのはもっと大変なので、難しいときは英語にします。』
『OK、私もミックスしてしゃべるわ。』

ボックス席からの視線を感じてケイが言った。
『みんなジェイを見てるわね。』
『違いますよ、ケイさんを見てるんですよ。』

『いいえ、お二人を見てるのよ。』
うしろからハルエが声をかけた。
『モデル並みのスタイルのケイちゃんと、映画スターみたいなジェイ君だもの、そりゃ注目されるわよ。』
ハルエはジェイのとなりに腰をおろすとケイと同じベリーニを頼んだ。

『あらハルさん、ハルさんこそ、あの気品のある東洋のマダムはだれだろう、
きっと有名な作家に違いないって、いつもみんなの注目を浴びてるくせに。』
『ハルさんは小説家、ですか?』

『残念でした、ただの専業主婦。物書きはケイちゃんよ。』
『わぁ、ぼく本が大好きなんです。ケイさんはどんなことを書いてるんですか。』
『やだ、ただのトラベルライターよ。まだ共著で何冊かだしただけ。メインは雑誌の雑文書きよ。
それよりハルさんが専業主婦?よく言うわ。そうやって人を煙に巻くんだから。』

『だって本当だもの。ジェイ君、それでね、ケイちゃんはイタリア専門なの。
だから私たち時々ケイちゃんの取材旅行にくっついてきて、こうやって楽しませてもらってるのよ。
ところでジェイ君はどんなお仕事?』

いつハルエがこの質問をするだろうと、ケイは考えていた。
そして彼はなんと答えるのだろうかと。

『僕は映画関係の仕事をしています。』
『あら、やっぱり俳優さんなの?』
『いえ違います。雑用係みたいなことをしてるんです。
将来は映画監督になりたくて、いま現場でこのまま仕事を続けるか、
それとも学校に入りなおそうか迷っているんです。』

よどみのないその答えは、まるであらかじめ用意されていたかのように、ケイには聞こえた。

『リエさんはなんのお仕事ですか?』
『ピアノ教師よ。そういえば彼女どうしたのかな?ハルさん声をかけてみた?』
『ええ、そしたらね、シャワー浴びたら疲れが出ちゃったって、少し休んでから来るって。
このところあんまり眠れてないみたいなの。』

『どうしたんですか、リエさん。』
『ジェイ、彼女どう思う?』
『カワイイです。でもすごくさみしそう。』
『でしょう?やさしくしてあげてね、失恋したばかりなのよ。』
『そうですか…。でもぼくじゃだめでしょう。』
『どうして。』
『失恋したときにすぐに他の人と付き合える人とそうでない人がいます。
リエさんはそうでない人だと思う。』
『その通りよ、ジェイ、よくわかるわね。』
『ええ、わかりますよ。ぼくもそうだし。』

『ジェイ君はリエちゃんの内面がわかる人なのね。リエちゃんもそういう人を選べばいいのに。』
ハルエが誰に言うともなくつぶやいた。

      ***

ウェイターが案内した席は奥まったテラスに面した中央、レストランじゅうの注目を浴びる席だった。
ジェイが前もってリクエストしたのか、それともウェイターの一瞬の判断だろうか。
いやきっと、ホテルスタッフの間で交わされた会話で、自然にこの席が選ばれたのだろう。
彼らは人間を見るプロだから、ジェイの発するある種のオーラに対してはそれ相応の対応がなされるのだ。

『ハルさん、ケイさん、なにが食べたいですか?たくさん召し上がって下さい。』
『ありがとうジェイ君、でも私、本当に小鳥ぐらいしか食べられそうもないわ。』
『私もよ、時差があるでしょう?だからこの時間じゃほとんど胃が働かないもの。』

ハルエとケイは前菜を飛ばし、ジェノバ風のミネストローネをハーフポーションにしてくれと頼み、
メインにはハルエが手長海老のグリルを、ケイはカルパッチョを選んだ。

じゃぼくもそれを、というのをケイが制して、
『ジェイ、どんなものが好きなの、おすすめを教えてあげる。あなたならたっぷり食べられるでしょう。
わたしたちに合わせたりしちゃだめよ。
もちろん魚介類も美味しいけど、ジェノバで一番有名なのはね、
バジリコと松の実とパルメザンチーズのペーストであえたパスタ、それから…』
結局彼はタコとオリーブの実のサラダ、ケイおすすめのペーストジェノヴェーゼのタリアテッレ、
そしてケイと同じカルパッチョを選んだ。

料理は新鮮な材料をていねいに調理してあって、疲れた胃にも負担なく入っていった。
ケイが選んだヴェネト地方の発砲ワイン、プロセッコもきりりと冷たく、
ウエイターのサービスも一流だった。

『いい店だわ。雰囲気があって、でも気取ってなくて。
心地よい緊張感と疲れさせない気配り。完璧ね。』
ハルエがそう評した。

『これで私たちのお腹が寝てなきゃね。』
『ケイさんのお腹はもう寝てるんですか?』
『そうよ、ジェイ、甘いジェラートでも与えて目を覚ましてやらないと、このままここで寝ちゃうわ。』
『まだ早いですよ、デザートと食後酒はバーのボックス席でどうでうですか?
あそこなら少しぐらい寝ても平気そうだし。』

『ケイちゃん、ジェイ君といってらっしゃい。私はもうダメ。
リエちゃんのへやをちょっと覗いてそのまま寝るわ。』
結局リエは降りてこず、もともと小食で酒も弱いハルエは、明日のためにと言って、その場を辞した。

『ジェイ、あなたタフね。眠くないの?』
『ぼく時差ぼけがどういうものか知らないんです。いつも不規則な生活だし。
それにずっと飛行機の中で寝てましたから。
まだ9時過ぎじゃないですか。もう少しつきあってくださいよ。』
『もうしょうがないな~、じゃちょっとだけよ。』

ケイも自分の中に、このまま去りがたい想いがあるのに気づいていた。
ジェイに押し切られるふうを装いながら、心のなかにあわ立つものを見つめていた。
そういえばあのとき、コンサートホールで偶然出会ったAに、
今夜のようにすこしだけ強引に誘われて、同じように感じたのだった。

そして最初の日々が始まった。

彼は学生時代の同級生の一学年下の後輩で、当時は仲間で集まって飲んだりするときに、
その他大勢のうちの一人として言葉を交わす程度の間柄だった。

でもあの再会が何月だったかを今はもう覚えていない。
3年後の二度目の再会とそれに続く日々があまりに強烈だったためだろう。
私たちが会っていたのは、ほんの数ヶ月だったのだろうか、それとも半年ほども続いたのか。

別れたのは2月か3月だった。
新しい仕事のためにと、高校時代の同級生の彼女の住む町に、彼は去っていった。

しばらくして手紙が届いた、彼女と結婚したと。

『ケイさん、どうしましたか、』
バーのボックス席に座ったケイの前に、溶けかかったアイスクリームと、グラッパのグラスが並んでいた。
『なんでもない。』

『眠いですか・・・?』
『ちがうの、昔のこと、ある人と出会ったことを思い出したの、
でもそれが何月だったか思い出せなくて。
そういうの、気持ち悪いじゃない?』

『大事なひとだった?』
『ええ。その後会わなくなったのに、その3年後、今から8年前に、もう一度再会したの。』

『それは何月だったか覚えている?』
『ええ、覚えているわ、7月の終わり、ローマで会ったの。
なぜ忘れていたことが突然よみがえるのかしら。
しかも忘れていた喜びではなくて、忘れていた痛みばかりが。』

『それは、終わっていないから。まだ思い出になっていないから。』
ジェイはそう言うとグラッパを舌の先でころがすようにを口に含み、静かに飲み下した。

バーのほの暗い照明に、彼ののどぼとけから鎖骨にかけてのやわらかな影が溶け込んでいる。
その影はジェイでもなく、ましてAでもなく、
固有の名前を持つ誰のものでもなく、
ただの男というものの象徴のように見えた。美しかった。

ケイはしばらくその影に見とれていた。
その影だけがケイのこころを不意うちのように襲った痛みを消してくれるような気がした。

バーの中に、しゃがれた男性ヴォーカルの歌声が静かに流れている。
  Adesso vieni qui… さあ、僕のそばに、ここに来て・・・・

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