『これ、美味しいですね。』
歌が終わるとジェイはグラッパをおかわりした。
『あなたお酒も強いのね。私はもうよっぱらっちゃたわ。それにしんみりしちゃってごめん。』
『僕がその人に似てますか?だから思いだした?』
『いいえ、全然似てないわ。ずっと忘れたと思ってた、でも出発前にあることがあって、
それで飛行機の中で思い出したの。
彼のことを、そしてもういいかげんにこんな想いを捨てなきゃならないってことを。
だからジェイは関係ないのよ。』
『そうですか。ケイさんも捨てにきたんですね。』
『あなたも昔の恋人を捨てにきたの?』
『すこし違うけど、まあそんなとこかな。
次に行くためには過去を捨てなきゃならない。そうでしょう?』
『そうね、私たち同じようなことをしようとしてるのね。
リエちゃんもそう、もしかしたらハルさんもそうかもしれない。
そしてあなた。
だから私たち、いっしょに過ごすことになったのかしら。』
『さあ、どうかな。それだけかな。僕は少し違うものも感じてるけど。』
その先を、ジェイが言おうとしていることを、ケイは怖れた。
心の底によどむ苦い澱の上に甘いものが流れ込んでくるのを、
できることなら止めたいと、ケイは思った。
この8年の間、ケイを見つめる男たちの中に、淡い期待を抱かせる男がいないわけではなかった。
Aによってあらわにされ、でも彼がついに埋められなかったケイのこころの空白を、
もしかしたら埋めることができるかもしれないと。
そんなとき、今夜のように心があわだち、お酒の勢いでその男と一夜を共にしてしまったこともあった。
でも一人としてケイの心の奥まで手を差し伸べようとする男はいなかった。
しだいに、失望が重なるのがいやになった。
心の空白はさらに大きくなり、同時に失望に対する恐怖も増大していた。
『ジェイ、続きはまたにしよう。
明日はどうするの。
私たちは朝遅くまでたっぷり休んで、それから街を散歩するつもりなの。
もしあなたが明日他の街に行くなら…』
『ケイさん、続きは明日にするんでしょう?
それに僕はコロンブスの街をこの足で歩きたい。
よかったら僕もおともさせて下さい。』
『わかったわ。もう少しだけつきあってあげる。だから今日はもう寝よう。』
『ありがとう、ケイさん。
知らない街で一人で放り出されたらどうしようと心細かったんです。
さあ部屋まで送りますよ。』
『またウソばっかり。ジェイって自分で何でもできるくせに、なんで私にそんなこと言うのよ。』
『わかりませんか? じゃそれもまた明日。さあ行きましょう。』
『いいわよ、大丈夫。いくら酔ってても部屋ぐらい…』
そういって立ち上がったとたん、ケイの体がぐらりと揺れた。
あわててジェイが腕をとる。
『ほら、だいじょうぶじゃないでしょう。
ケイさんの悪いところはもしかしたら強がるところかな。』
『なんですって。』
『いやなんでも、ほらしっかりして、エレベーターはこっちですよ。』
そう、私の悪いところは強がるところ。
いつも平気な振りをしていた、あのころも。
ジェイに支えられて歩きながら、よみがえった痛みが全身に広がっていくのを、
ケイはどうすることもできなかった。
ケイは自分で思うより酔っていたようだ。
ドアにカードキーを差し込んでもなかなかうまく開かない。
ジェイがそっとキーを取り上げてドアを開ける。
彼女をだきかかえるようにして部屋に入るとソファーに座らせ、
ベッドの上の散らかったものをひとつづつかたづけはじめた。
『ジェイ、大丈夫よ、そんなことしないで。しばらく休んでからやるから。
お願いだから帰って。』
『ケイさん、一人で大丈夫ですか?』
『ごめん、ジェイ、お水だけちょうだい。』
ミネラルウォーターを飲み干すケイを、横に座ったジェイがじっと見つめる。
そっと手を延ばし、ケイの唇にこぼれた水のしずくを指先でぬぐう。
その指がそのままケイの唇のはしに止まった。
やがてゆっくりと唇をなぞる。
その指の動きと共に、こころの奥底の痛みが浮上し、やがて軽くなっていくのを、ケイは感じた。
目を閉じる。
ジェイが片手でケイの肩を抱き寄せ、ケイは頭を、がっしりとしたたくましい肩にあずけた。
深いやすらぎを感じた。それはもう長い間感じたことのないものだった。
ケイは自分が泣いているのに気づかなかった。
そのまま時間が流れ、やがてケイは眠りに落ちていった。
***
長く眠ったようだった。
すでに頭は冴えてきている。
目を開くと部屋の明かりは落とされ、ドアの前のライトだけが小さく灯っていた。
ジェイの肩にもたれて眠ってしまったことを、ケイは思い出した。
ベッドから起き上がって窓のカーテンを引くと、
ほのぐらい闇に街灯に照らされた夜の街が広がっている。
腕時計の針はまだ午前2時。いつものことだ。
日本時間の朝になるとすっきりと目覚めてしまう。
イタリア時間に体が慣れるのに、1週間くらいかかるのだ。
その間、深夜に目覚めた後もう一度眠るために、ケイはいつも睡眠剤の助けを借りていた。
明日のために眠りたかった。何より、今夜のことあれこれ考えてしまうのがいやだった。
パジャマに着替えて薬を飲む。
すぐに訪れた眠りの前に、
両手でケイの頬を包み込み、流れる涙を唇でやさしくぬぐい取ってくれたジェイの姿がよみがえった。
そのあと、ジェイの唇がそっとケイの唇に触れたような気がした。
あれは本当のことだったのだろうか。
ケイを抱きかかえてベッドに寝かせ、そっと額にキスしてくれたジェイも。
その全てが、もう一度眠ればきっと朝には忘れてしまう淡い夢のように、ケイには思えるのだった。