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再生-イタリア紀行 with J #6 <2日目/ジェノバ散策③>

 

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ケイは少し歩きたかった。
リエのあまりに直接的な話が耳にこだましてやりきれなかった。

ジェイも異存なく、二人は中世の港町の猥雑な面影を色濃く残すサン・ルカ通りに足を進めた。
500年以上前も、異国の船乗りたちが闊歩したであろうこの通りは、その狭さから車も通らず、
今は左右の建物の壁にとりつけられたけばけばしい看板やネオンのせいで、一層混沌とした雰囲気をかもし出していた。

通りを流しているのは、ホテル周辺や教会前の広場にいたのとは明らかに違う種類の人たちだ。
アフリカ系の黒人の姿や、褐色の肌に彫りの深い顔立ちの、一見してアラブ系とわかる男たちの姿も目に付く。
通りに面したインターネットカフェでモニターをにらんでマウスを動かしているのは、ほとんどがそんな男たちだった。
そこに土地っ子と観光客が混ざり、雑多な色づかいではめこまれたモザイクのように、様々な色合いの人々がちらばっていた。

食料品店、酒屋、八百屋、靴屋、衣料品店、雑貨屋、ミュージックショップ、電気屋…、
あらゆる種類の商品が、ここならみつかりそうだった。

『韓国の市場もすごいけれど、ここ、すごいですね。
すこし中近東みたいな感じもします。といっても行ったことはないけれど。』

『そうね、無国籍な不思議な雰囲気ね。
でも夜はもっと危ない妖しい街になるのよ。
客引きや娼婦や麻薬の売人が通りに立って、道行く人を嘗め回すように見るの。
けっして目を合わせてはだめ。まして暗い横道に入ったりしたら、二度と元の道に出られない。』
『ケイさん、夜歩いたことあるんですか?』
『もちろんよ。』

本当はなかった。
よほどこの土地の裏社会に精通した知人とでも一緒でなければ、誰もそんな危ない真似はしない。
でもケイは先ほどリエによって揺さぶられ、遠くにほおり投げられた心を取り戻すために、過剰で、過激なものを欲していた。

『そこの通りを曲がってみよう。抜け道だから。』
『大丈夫ですか?』
『コワイ?』
『いえ、面白そうです。』
そういうジェイの表情が少し引き締まる。

その通りは人がすれ違うのもやっとのような狭さで、サン・ルカ通りの喧騒がウソのように静まり返っている。
店などは一切なく、住宅なのか、何なのかわからないいくつもの扉が、どれもみな固く閉ざされていた。
赤い文字でBARと書かれた看板がひとつだけあったが、時間が早いためか、それとも既につぶれているのか灯も入っていない。

ケイはその下のうすよこれた扉を眺めた。
もしこの扉が開いて屈強な男が現れ、私の左腕をとり、建物の中に引きずり込まれたら、
そしてすぐにその扉が再び固く閉じられたら、
ジェイがあわてて扉を開けても、もう私を見つけることはできないだろう。
そこはひとけのない廃屋で、ほこりが積もり、出入り口はこのドアだけで、
正面の蜘蛛の巣の張った窓ガラスにはヒビが入り、鉄格子がはまっているだろう。

『ケイさん、大丈夫ですか?
コワイですか?』
ケイは扉にうつろな目を向けたまま、すこしかすれた、低い声で答えた。

『違うの、魅了されているの。私本当は夜歩いたことはないのよ。
でも想像するとめまいがして、ぞくぞくするわ。
今も私の頭の中に、この扉から自分がさらわれて、一瞬のうちにジェイの前から消えてしまうシーンが浮かんだわ。』

うっとりと夢想するケイを、ジェイは何も言わずしばらく見つめていたが、
ケイの夢想がさらに広がっていきそうなのを見て取ると、ケイの肩を引き寄せ、
そのまま汚い建物の壁にケイを押し付け、荒々しくケイの唇を奪った。

ジェイが、自分を引きとめようとしている?
彼の目の前にいながらも、心を遠くにさまよわせていく私を、自分につなぎとめようとしている…
熱く激しいキスに、やがてケイは、自分が戻ってくるのを感じた。
でもそこは、すでにさっきまで自分がいた場所とは少し、違っていた。
そしてジェイも、ストーリーの傍観者ではなくなっていた。

扉がガチャリと音をたてて開いた。
その音に気が付きながらも、あまりに深く互いのなかに入り混んでいて、二人はすぐに体を離すことができなかった。

『ご、ごほん…しつれい。通してくださいな。』
そう言われてようやく離れると、二人の横に小柄な老婆が立っていた。
ショッピングカートを引いている。
ジェイがケイの横に体をずらす。
老婆が片目をつぶって言ったその言葉にケイは笑った。

『なんて言ったんです?』
『おじゃましてごめんなさい、どうぞ続けて、って。』
ジェイも笑いながら言う
『続ける?』
『ええ、続けてもいいわ。でもこのまま続けたら、わたし歩けなくなりそう。それでもいい?
それにここで本当に夜になって、二人で拉致されたらハルさんとリエちゃんが困るわ。』

『あのお婆さんに拉致されるの?』
『そうよ、彼女は裏社会の隠れたボスなのよ、いえ、ボスの母親だからだれも頭があがらない。』

ジェイがもう一度愉快そうに笑った。
『その話の続きは歩きながら聞かせてください。街ももっと見たいし。』

『ねえケイさん、僕にも話してください。僕が一緒にいるときは、僕もそこに連れて行ってください。
ケイさんが一瞬にして遠いところにいってしまうのがいやだ。』

『なぜ?なぜあなたも連れて行かなければならないの?
これはいつからか私の一部になってしまった困った癖だけれど、
行き先は誰かを連れて行けるほど楽しいところではないのよ。
それにあなたリエちゃんや私なんかのつまらない話に、なぜそんなに興味があるの?
将来監督になったときのための、映画制作の参考にかしら?』

『違います。いえ、最初はそんな気持ちも少しはあったかも知れない。
実は空港で話しかけるしばらく前から、あなたがた三人を見ていました。
この人たちはどういう人だろうって。ただの旅行者には見えないし、
かといってこちらに暮らしている人でもなさそうだ。
まるで自分の街の空気を吸っているような自然さのハルさん、
少し魂が抜けたようになってこの土地にからだをあずけているようなリエさん、そしてあなた。』

『私はどう見えて?』
『ケイさんはカッコ良かった。生まれた海に帰ってきた魚のように、生き生きと、嬉しそうに泳いでいた。』

『そう、私たちそんなふうに見えるのね。
でもそれがこれほど、こんなふうに踏み込んでくるほどに、興味のあることなの?
そもそもあなた、何のためにイタリアに来たのよ。』

その質問は、ケイもジェイの中に一歩踏み込んでいくことを意味していたが、
今ケイは自分を止めることができなかった。

『少し前に終わった仕事の余韻を捨てるためです。
映画を撮ることは、ひとつのドラマを作ること、人々の人生の複雑なからまりを撮る事なんです。
スタッフは皆一緒になって、そのドラマを生きる。
ドラマにのめりこまなければ作品はつくれない、その何ヶ月かの間、そのドラマがスタッフの現実の生そのものになるんです。

でも撮影が終わったら、今までの現実は一本の映画という別の現実になる。
ただどっぷりとそのドラマを生きたものは、なかなか本当の現実に帰ってこれない。
特に今回の作品は僕にとっ実にリアルな現実でした。
だから韓国以外、それも僕の知っているアジアではなくて、知らない街にきて、知らない人々の間でそんな時間を洗い流したかった。

それにイタリアの歴史に興味があった。
いや歴史というより、何千年もの歴史が目の前に、自分たちの暮らしのなかにそのまま息づいている国の人々を、見てみたかった。
どんなふうに生きているのか、どんな表情をしているのか。
たとえばローマなら、二千年前の遺跡を背景にしたとき、その人の中に二千年の時の流れが見えるものなのだろうか、と。』

ケイはそのことをすでに見ていた。
時間の積み重なりが目に見える形で存在する空間で、
その時間のなかに生きている人々の暮らしぶりも、表情も、確かに自分たちとは異なるものであることを。
この人たちはわが身に与えられた時間が、長い時の流れの中のほんの短い一瞬であることを知っている。
400年も500年も前の建物に住み、買い物のために、昔の人が歩いたのと同じ道を歩く。

『ケイさん。またどこかに行ってませんか?』
『ああ、ごめんなさい。500年前にワープしてたわ。
さっきのおばあちゃんが、着ている物さえ違えばそのままあの時代のひとでもおかしくないでしょう?
まったく同じ風景に、きっと似たような人たちがいたんだろうって。

そのころ、あのサン・ルカ通りには今と同じようにいろいろな肌の色の人々が行きかい、
様々な国の言葉が飛び交っていたんだわ。
あの通りで船乗りたちのけんかがあり、命を落とした人もいた。
生まれた赤ん坊を隣近所に見せ歩く若い父親も、きっといたわ。
私たちのように、昨日知り合ったばかりなのに、肩をならべて歩く男と女も。
それがリアルな映像として目に浮かんだの。

それで、最初の質問の答えは?』

『きっと今のような話を、ケイさんならしてくれるんじゃないかと思ったんです。』
『うまく逃げたわね。』
『ええ、最初は単純な好奇心でした。この国の時間の流れに溶け込んでいる東洋人は珍しく思えたから。
でも…』
『でも?』
『でもそれだけじゃない。』

『待ってジェイ、その先は言わないで。』
『ケイさん…』
『お願いよ、何を言おうとしているかはわからない。
でも言ってはいけない気がする。』
『怖いものしらずのあなたが、逃げるんですか?』
『それは違う、私は怖がりよ。ええ、傷つきたくないの。リエちゃんを見たでしょう。私もああだった。
二度とごめんなの。』

『僕をあんな男と一緒にしないでください。』

『ジェイ、そうじゃないの、そういうことじゃない。
ええ、それは充分わかっている。あなたは最初から私が眠るのを見届けてくれたわね。
リエちゃんがあんなに願っても得られなかったものを、あなたはいとも簡単にわたしにくれた…、
そして私の痛みに寄り添ってくれた、そんな人は初めてだったわ。
あんなに自然に、しかも何の手順もふまずに、あっという間に私の中に入ってきた。』

『僕はちゃんとケイさんの中にいるんですね。』
『ええそうよ、気が付いたらもういたの。だからそれだけじゃだめかしら。
お願いよ、今はこれ以上言わないで。』

海岸線にほぼ平行に走っているサン・ルカ通りから垂直に入った小路は、登ったり、また下ったり、
複雑にいりくんでいた。しかし上へ上へと登っていけば、ガリバルディ通りに出るはずだ。
少し迷ったりしたものの、やがて薄暗い急な上り坂の先に、建物が途切れているのが見て取れた。
そこが中世の迷宮の出口だった。

『さあ、一気に200年タイムスリップするわよ。
ここがガリバルディ通り、16世紀から18世紀につくられたお金持ちの宮殿が並んでいる通りよ。』

そこは壮麗なバロック様式の建物が両側に立ち並ぶ華やかな通りだった。
道幅はかなり広いが、車は乗り入れ禁止なので、往時のたたずまいはしっかりと保たれていた。

『この建物派手でしょう。ロッソ館、赤の館っていうの。向かい合っているのはビアンコ館、白の館よ。
いまはどちらも美術館で、ヴェネツィア派やフランドル派のすばらしいコレクションがあるわ。
その隣はトゥルシ館、現在は市庁舎として使われているの。
ここには有名なパガニーニのバイオリンやコロンブスの遺品が展示されている。
たぶんハルさんとリエちゃんは明日見に来るつもりでいると思う。ジェイもいっしょに来なさいよ。
あの二人、きっと優秀な解説員になってくれるわ。』

『ケイさんは来ないの?』
『ええ、私はポルトフィーノへ、船で往復してくるつもりよ。』
『どんなところですか?僕も一緒に行ってはだめですか?お願いです。連れて行ってください。
美術館の絵画や過去の遺品より、生きた街や風景や人間を見たいんです。』
ジェイは一気にそう言った。

けいは一瞬ためらった。
しかし真剣なその目を見たら断れなかった。
『わかったわ。あそこはジェイみたいなのを連れてったほうが楽しいかもね。』
『僕みたいなの?みたいなのってなんですか?』
『行けばわかるわ。』

『それより、どう、この通り?』
『ええ、荘厳で圧倒されます。でもぼくバロックはあまり好きではないな。なんだかごてごてしていて。
むしろあの迷路のような裏通りの表がこんな顔をしていたなんて、それが驚きです。
全く違う表情を持った街が隣り合っていて、200年の時の違いをたった一歩で超えられる。』

『ええ、これほど劇的に違う時代が隣り合った街を私は他に知らないわ。
もちろんローマは別の意味でもっとすごいけれど。』

『ローマは、ローマはどうですか?どんなですか?』
『あなたこのあと行くつもり?』
『ええ、ローマだけは絶対はずせません。』
『それなら自分の目で見るまで、話は聞かないほうがいいわ。』
『ケイさんはこのあとローマに?』

ローマ、ローマ、ローマ…
頭の中でその名がこだまする。
ローマに、私は行くだろうか?

『わからないわ。
このあとフィレンツェに寄って、そこから取材のために、直接シチリアに飛ぶかもしれない。』
『あ、僕フィレンツェも絶対行きたいんです。じゃフィレンツェまでは一緒ですね。』
『ちょっと、勝手に決めないでよ。』
『あー、良かった。』
そういってジェイはさっさと歩き出した。
『ちょっと、待って、待ってったら。ジェイ!』

いきなりジェイが立ち止まって、ケイがその背中にぶつかった。
そこはかなり大きな広場だった。
ガリバルディ通りが終わって今の時代に、車の騒音のなか、勤め帰りの人々が足早に行き来する、21世紀に戻ったのだ。

『また300年タイムスリップした。』
『ええ、そうよ。どう?面白いでしょう?』
『すっごく、すごく面白いです。なんだかわくわくします。できるなら夜の中世も歩いてみたい。』
『でしょう?そしたら夕食をこのあたりで取りましょうか。
ここから少し入ったところに美味しいレストランがあるの。裏社会のとば口だから、すぐに表社会にも戻れるし。
ホテルはすぐそこだから一休みして着替えてきましょう。』

『ハルさんとリエさんも一緒にね。』
ジェイはそういうとケイの手をとり、歩き出した。
『21世紀の車の流れを渡るには、こうしないと危ないからね。』
その手を、ケイはあわてて引っ込めようとしたが、
それはあたたかな大きな手にすっぽりとつつまれ、強く握られてしまっていた。

手をつないで歩きながら、ケイはさっきのジェイの言葉を思い出していた。
映画のスタッフ、と彼は言った。それをケイは問い詰めなかった。
一スタッフがそこまでドラマの中の現実に入れ込むとは思えないと、ケイは言わなかった。

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