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再生-イタリア紀行 with J #13 <5日目/フィレンツェ、眺めの良い丘にて②>

 

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昼食後、メディチ家礼拝堂に行こうとケイが言うのを、ジェイが眺めの良いところでゆっくりしたいと反対した。

『僕はこれ以上、本当にもういらないんです。お腹が一杯なんです。』
『じゃとっておきの、私の秘密の場所に案内してあげる。』

ポンテヴェッキオの、橋の上の貴金属店をすこしひやかしながら歩く。
観光客といっしょになって。
なにも考えずに手をつないで。

彼を私が暮らしたあの丘の上の家に連れて行きたい。
ケイは強くそう思った。
そうして台所でパスタをゆで、二人でテラスで食べる。ううん、市場で買ったインスタントラーメンでもいい。
食べて飲んで、つまらない冗談に笑いあって、そして抱き合って眠る。
でもそれはけっして叶わぬことなのだ。

やがて城壁と大きな門が見えてきた。ポルタ・ロマーナ、ローマ門である。
そこを抜けると、町の様子がすこし代わる。
建物の時代がもっと下り、人々が普通に暮らす家並みが続く。
広場を渡ると、左に小さな郵便局がある。
その向かいの道を右に、狭い急な坂道をたどる。

あまりに急なので、ここにくるとケイはいつも自転車を降りて、引いて上がったものだった。
上りきるとすこし広めの通りに出る。右に伸びるのがジョバンニ・プラーティー通り。

『この通りの19番地に私、しばらく暮らしていたの。』
『行って見ましょう。』

同じようなつくりの建物がいくつか並んでいる。
標識を見ても、当時の大家の名前はなかった。
No.19の扉も他の扉と同じそっけなさで、ケイを拒んでいる。
自分が住んだのは本当にここだったのか、自信がなくなってきた。
中の様子は鮮明によみがえるというのに。

扉を入るとすぐ階段で、中段の正面のドアがケイが暮らしたアパートの入り口だった。
キッチンとバスルーム二つを共有して、5人の男女がそのアパートをシェアしていた。
ケイ以外には日本人の女子学生や、ドイツ人やベルギー人の男性などが入れ替わりたちかわり入居し、
しばらくすると出て行った。
通っていた語学学校が大家と契約して、次々に学生を送り込んでいたのだ。

『思い出しますか?』
『ええ、大家さんはルチアっていって、骨董屋さんをやっていた。素敵なマダムだったわ。
よく一緒に若い男がいた。共同経営者って紹介されたけど、誰が見ても愛人だった。』

『どう思いましたか?』
『いつもあまりに自然にしているから、変な感じはすこしもしなかった。』
『ご主人は?』
『一度も見かけなかったな。別居してたのかもしれない。
夏休みになるとルチアとその若者はバカンスで海に行ってしまって、代わりにルチアの息子のニコロが帰ってきた。』

『仲良しになった?』
『バカンスのシーズンって、街の人口が急減するのよ。ちょうどアパートには私一人きりになってしまって、
Aが去って行ったあとのつらい時だったし、ただでさえ人恋しくて、自然と話すようになったわ。
彼大学生で、話も面白かった。
観光客が行かないような現代美術館や、郊外のお屋敷の庭で行われたジャズコンサートに連れて行ってくれた。』

『癒されましたか?』
『ええ、少しは。
そういえば一度食事をご馳走するって家に招かれたわ。パスタでもゆでてくれるのかと思った。
それまでも二人でキッチンで適当に作って食べたりしていたから。
でもあの時は彼の部屋に通されたの。』

『それで?』
ジェイの表情が固くなったのがおかしくて、でもそれがすこし嬉しくもあった。

『まるで高校生のガキの部屋だった。乱雑で。
でも小さなテーブルにクロスがかけてあって、
いつもは薄汚れたジーンズとくたびれたTシャツなのに、
その日はコットンパンツにきれいなプリントのシャツを着ていて、おやっと思った。』

『彼にとっては特別な日だった…』
『さあ、なにも特別なことはなかったわ。いつもと同じ会話だったし、音楽を聴いたりして…。
でも驚いたことにはクスクスが出てきたの。』
『クスクス?』
『ええ、北アフリカの料理。あとで聞いたら通いのメイド、エチオピア人のマーサが作ってくれたんだって。』
『メイドがいたの?』
『ええ、可愛い娘だったわ。
それでね、ある晩夏だけオープンする野外映画館に行ったらニコロとマーサがいたの。
二人でオートバイで帰っていくのを見送りながら、可愛い弟とガールフレンドを見るような気持ちになったわ。』

ジェイがほっとしているのがわかって、ケイは笑った。
『何がおかしいんですか?』

『今までYのこともAのことも、平気な顔をして聞いてくれたのに、ニコロのことだと違うんだもの。』
『ケイさんが楽しそうだったから。』
『私が楽しかったのが気に入らないの?』
『そうじゃないけど…』

めずらしくジェイが苦笑いをしている。
ケイが笑うと、やがてジェイも笑い出した。
ケイとジェイは腕と腕をからませて、笑いあいながら歩いた。

やがて道は住宅街を過ぎ、低い石垣の向こうにオリーブ畑や果樹園が続く一角となり、
それが終わると木々の生い茂る森となり、その中に一本の道が続いていた。
その道をたどると重厚な鋳鉄の大きな門に突き当たる。
門の奥の館はこのあたり一帯の農地を治める領主のお城、といった風情であるが、
今門が開かれているのはここがホテルだからだ。

一歩門を入れば広い庭で、片隅にはプールがあり、
庭のはずれの低い生垣の向こうには、糸杉とオリーブが植えられた斜面が、なだらかなスロープを描いて下っている。
その先に光るのはアルノ川だ。
しかしなにより素晴しいのは、ドゥオーモとベッキオ宮殿、サンタ・マリア・ノヴェッラ教会の塔など、
フィレンツェのエッセンスともいえる町並みを川の向こう側に一望のもとに眺められること。

突然目の前に広がったパノラマに、ジェイは言葉を失っていた。

観光客はフィレンツェの全景を見るために、たいがいはミケランジェロ広場に行く。
確かにあそこからの眺めは絵のようだ。
しかし絵葉書や雑誌であまりに使いまわされ、手垢がついてしまって、
その美しさを自分のものにすることがなかなかできない。
でもここからの眺めは、みずみずしく無垢だった。

『すばらしい。』
『ええ。』
それ以上の言葉はいらなかった。

ちょうどよい位置に置かれた、街を見下ろすベンチにすわり、飲み物を頼む。

『ケイさん、聞いてもいいですか?』
『こんな素晴しい景色を前に、つまらないことを聞かないでね。』
『いや、聞かずにはいられません。』
『8年前、あなたはどんな気持ちでこの景色を眺めたんですか?
おそらくあのころ、あなたはここによく来たのではないですか?』

『ええ、ニコロより誰よりも、この景色に癒されたわ。ここまで来る道にも。果樹園の壁の石の色にも。
いつも夕陽をおいかけてここに来た。日が沈むと帰るの。一人の部屋へ。
いつだったか、空が薄い紫色で、一本の糸杉のシルエットに三日月がかかって怖いくらいきれいだった。』

『あなたはここに彼を置いて、帰国したんですか?今も彼はここにいますか?』
『いいえ、彼がここにいたことは一度もないわ。
彼は私と、あの寂しさを共有したことがなかった。』

そして私は彼をひきずったまま日本に帰った。

   ***

ホテルに帰り、他の客の相手をしているアンナに軽く手だけ振って行き過ぎようとすると、彼女が目配せしてきた。
『チャオ、ケイ、今日もソファーはベッドメイキングしなくていいよね。』
『チャオ、アンナ。そういえば昨日なんでしておいてくれなかったの?』
『だって彼がいらないって、電話で言うから?』
『ジェイが?』

ジェイが口をはさむ。
『なんですか、アンナさん。』
『ミスタージェイ、今夜はソファーはどういたしましょうか?』
『もちろんなにもしなくて結構です。それより今夜も冷蔵庫にシャンパンは揃っていますか?』
『はい、ご用意できています。他にご入用のものは?』

『いや今のところは。ああ簡単な夕食を頼みたいな。
いつもケイさんにまかせっぱなしなので、今日は僕が選びたいんです。いっしょに選んでくれますか?』
『喜んで。』
『ではあとでおすすめのものを教えて下さい。電話します。』

『ジェイ…』
『今夜はフィレンツェ最後の夜でしょう。
どこかに行ってもいいけれど、あんなにたくさんお昼を食べたからあまり入らないでしょう。
だから部屋で軽くすませませんか。』
『ええ、わかった、そうしましょう。』

Buona serata ! 素敵な夜を !とアンナは言って、そっとケイにだけわかるように付け加えた。
Beato te… あんたがうらやましいわ、と。
でも今ケイは、気の利いた受け答えができなかった。

エレベーターの中でケイはとうとつに口を開いた。
『ジェイ、質問がある。なんでソファーのベッドメイキングを、』
『ことわったか?』
『そうよ。私をだましたのね。すっかりそのつもりでいたくせに。何もしません、ですって。さすが俳優だわ。』
『ケイさん、つまらないことにこだわらないで。さあつきましたよ。』

部屋に入り、ソファーに座る。

『ジェイ、ちゃんと答えて。』
『ケイさん、電話で断ったのは、いやだったからです。』
『何が?』
『だって無粋でしょう。あのソファーがベッドになったらこの部屋の雰囲気はぶちこわしだ。
その横でキャンドルをつけても、シャンパンを開けてもひとつも美しくならない。
そんなのいやだったんです。あなたと過ごす夜は完璧でありたかった。演出家としては。』

『演出家?私たちはお芝居をしてたってわけ?』
『ケイさん、違います。ただ僕はあなたに最高のものを与えたかった。
僕は僕の与えられる最高のものをあなたに与えたかった、それだけです。』

ケイには自分が何故こんなつまらないことを言い募っているのか、わからなかった。
いやあまりに悲しかったので、悲しむ代わりに怒っているのだ。

ケイはひそかに今夜を最後にジェイと別れるつもりでいた。
でもジェイの口からその言葉が出たとたん、彼はただ単にフィレンツェの最後の夜と言ったにすぎないのに、
こころがかき乱された。
そして別れた後に残るであろう痛みに恐怖ばかりが募っていた。

黙ってテラスに出て、アルノ川を眺める。
後ろからジェイが近づき、そっとケイを抱きしめる。

『ケイさん、何を怒っているんです。』

『ごめんなさい。
あなたは私にこれ以上ないくらいの夜をプレゼントしてくれたのに。』

『もう怒っていませんね。ぼくはいつも最善を尽くします。特にあなたには。
それだけはわかってほしい。』
『ええ…』

嬉しかった。嬉しくて、でも悲しかった。
最後の夜、という言葉だけは、ケイの頭の中から消えることはなかった。

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