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再生-イタリア紀行 with J #15 <6日目/ローマ①>

 

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フィレンツェから特急列車ESでローマまで1時間40分、
去りがたい思いで眺めていたトスカーナの糸杉やオリーブの丘の景色が、
すこしシャープさがなくなってきたと思ったら、もうローマだった。

テルミニ駅はフィレンツェの駅よりはるかに大きく、行きかう人の数も多い。
ガラス張りの駅舎は明るく、西暦2000年の大聖年を期に改修された構内はモダンで活気に溢れていた。
駅を一歩出ると、フィレンツェとは比べ物にならないエネルギーを感じる。
おびただしいタクシーが次々に客をのせて走り去り、駅前の広場の少し先はバスターミナルで、
そこにはオレンジ色のバスがはてしなく並んでいた。

『デ・シーカの“終着駅”の舞台ですね。でもあのモノクロの世界はどこにもない…。』
タクシーを待ちながら、ジェイがつぶやいた。
“終着駅”は、様々な人生が交差する駅という舞台で繰り広げられた、
アメリカ女とイタリアの若者の短い恋と切ない別れを描いたメロドラマだった。

『私去年の冬、南イタリアの半島の果ての小さな漁村を歩いていたの。』
いきない話題を変えたケイを、ジェイが待ち構えるように見つめる。
『教会を探していたの。通りを歩いていた二人連れのおじいさんに訊いたわ。
教会までこの道でいいんですか、って。何と答えたと思う?』

『う~んなんだろう。 いや、この先はイタリアの終着駅、地の果ての港さ、かな。』
『それもいいわね。それで映画が一本つくれそうじゃない。』
『はずれ?』
『ええ、実はこう言ったの。
お嬢さん、大丈夫、この道は教会まで行きますよ。そしてその先はローマまでね、って。』
ジェイが笑った。
『カッコいい受け答えですね。“全ての道はローマへと通ず”…。』

『冬なのに、街は眩しい日差しと強い風にさらされていた。
海にぐるりと取り囲まれ、確かに地の果てだった。
でも海を渡れば、すぐそこはアルバニアやギリシャで、
距離にしたらローマよりそっちのほうが近いの。
その先には古代ローマが作った道が、今でもずっとトルコや中東をめざしてつながっていて、
やがてその道はアジアを抜け、韓国に至り、そしてまた海を渡れば日本だわ。』

『道は、海をも越えてつながっていく。人が行きたいと望めば、道ができる…。』
『ええ…』
『終着駅は始発駅でもある…・』ジェイがつぶやいた。

タクシーはナイアディの噴水のある共和国広場を回り、
土地っ子御用達のショッピングストリート、にぎやかなナツィオナーレ通りを過ぎる。
やがて左手に巨大で真っ白な建物が現れた。
ローマっ子にはウェディングケーキと評判の悪い、ヴィットリオ・エマヌエーレ二世記念堂だ。

どこまでも青い空が、ローマ特有の松の街路樹のむこうに広がっている。
ローマを訪れるたび、この空と松が、そして二千年の時を眼前に見せてくれる遺跡や石の建物が、
ケイの中にある種の興奮を引き起こす。
フィレンツェとは全く違うおおらかさで気持ちが開いていくのを、ケイは感じていた。

『スケールが大きいですね。』
『世界の都市ローマ、だもの。』
『わくわくします。何故だろう。なにかが僕を誘っている。』
『ジェイも感じる?ローマの魔力を。』
『ローマの魔力…』

『ジェノバでは異なった時代が背中合わせに張り付いていて、時空を一瞬でタイムスリップするようだった。
フィレンツェでは体も心も丸ごとルネッサンスの時代に包み込まれたように感じた。ローマはどう?』

『まだよくわかりません。でも、時が積み重なったダイナミズムのようなものを感じます。
そのみなぎる力に自分の中の何かが揺すぶられ、呼び覚まされるような…』

『ええ。そして時の流れの中、今の自分のこの一瞬の生に対する感謝と歓喜が湧き上がる…。
でもね、ローマでは時が立体的に重なり合っているだけじゃない。
時は平面的にも、無秩序に混在しているの。
その混在の中に自分も紛れ込み、渾然一体となる快感…、ジェイにもすぐにそれが解るわ。』

エマヌエーレ二世記念堂のあるヴェネツィア広場を過ぎ、
下町の迷路のような一方通行の通りを右に左にと車は走り、方向感覚がわからなくなったころ、ホテルに着いた。

アンナに頼んで探してもらったホテルは、ローマのど真ん中、ブルネレスキがクーポラの設計を学んだというパンテオンの裏手のホテルだった。
ホテルはギリシャ神話の知恵の女神ミネルバの名の教会のある広場に面している。

『あれはなんですか?不思議な彫刻ですね。』
広場の真ん中のゾウの上に小さな柱がのっているのを指してジェイが訊ねた。

『古代ローマ時代にエジプトから持ってきたオベリスクよ。
中世には打ち捨てられていたのを、16世紀の教皇が巡礼の道しるべになるように要所要所に立てさせたの。
これからあちこちで見るわ。
たいてい先端にはキリスト教のシンボルや十字架、聖人の像を載せて、異教に対するキリスト教の勝利を表している。
このオベリスクを支えているゾウはバロックの街ローマを作った17世紀の彫刻家ベルニーニの作品。』

『ユニークで親しみを感じます。しかしここにも歴史の重層性がある。』
『それを言えばこの教会もそうよ。古代のミネルバの神殿のあとに建てられているの。
ローマにはサン・ピエトロ寺院を筆頭に素晴しい教会がやまほどあるけれど、
古代ローマの遺構が地下に残っている教会だってあるのよ。今日と明日だけじゃとても見て回れない。』
『いいんです。ローマでもどこか一箇所ぐらいをじっくり見られれば。』

高い天井のホテルのロビーには神殿風の柱が並び、おおきな女神の彫刻が置かれていた。
ローマにはこのように重厚な“ローマ風の”ホテルが多い。
部屋は蜂蜜色の壁にマッチした同系色のカーテンと、同じファブリックのベッドカバーが掛けられ、
アンティークな家具が配されたジュニアスイートだった。
天上には太い梁が露出していて、それがともすれば浮かれた華やかさに流れそうな部屋の色合いに、
重厚さと落ち着きを与えていた。

『ジェイ、こんなすごい部屋でなくてもいいのに。』
『だってフィレンツェではケイさんのおかげで素晴しいところに泊まれたから。』

急にジェイが言った。
『本当に、ぼくたちあと二日したら離れ離れになるんだろうか。』
『ジェイ…』
『なんだか信じられません。それを思うと、どこにも出掛けず、ここでずっとケイさんと二人でいたいくらいです。』

ケイはだまってスーツケースを開き、必要なものを取り出しにかかる。
『ケイさん…』
ケイを見つめ続けるジェイの眼差しが背中に熱く突き刺さるが、
それを無視してケイはベランダに出た。
眼下にはゾウの上に乗ったオベリスクが小さく見えた。

待っているよ、待っているよ…
Aの声が頭のなかでリフレインしていた。

ホテルの近くの気さくなワインバーで昼食をとる。
ケイはどこか上の空で、そんなケイをジェイが複雑な表情で見つめる。

パンテオンは周囲の建物からかなり低くまったところにあった。
この高低差が、すなわち二千年の時の差である。
前面に、花崗岩の円柱が底辺の広い二等辺三角形の破風を支えていて、
その奥に円筒形の壁に乗った巨大なドームが隠されている。
ドームは直径も高さも43.3メートル、しかし全てのスケールが大きいローマではそれほどの大きさを感じない。
中世にキリスト教の教会として使われていたため、ほぼ完全にローマ時代のまま保存されている唯一の建物だ。
ギリシャ語で万神殿を意味するパンテオンは古代ローマ時代にはたくさんの神々を祭る神殿だった。
その神々の彫刻が置かれていた壁のニッチ(くぼみ)は中世キリスト教時代に礼拝堂になり、
その後ラファエロを初め多くの芸術家や文人、政治化の墓も置かれている。
ケイはジェイに簡単にそんなことを説明しながら、きれいに修復された大理石の床をすべるように歩いた。

ドームの中に窓はないのに、内部はやわらかな明るさに溢れている。
光はドーム中央の丸い穴から降り注いでいて、その光が床に明るい輪を描いている。
見上げると空が見える。じっと眺めているとその丸い空をゆっくりと雲が流れていく。

『あれは?穴が開いているんですか?』
『ええ、あの穴は直径9メートルもあるの。』
『雨が降ったらどうなるんです?』
『この中にも雨が降るでしょうね。
それを見てみたいとずっと思っているのだけれど、残念ながらいつも晴れた青空と流れていく雲しか見られない。』

『ここは神様の場所だから雨は降らないんじゃないのかな?』
確かにそうかもしれない、それが本当のように思えるほど、パンテオンの中央の窓には青空がよく似合った。
空につながる窓、あそこから魂がのぼっていける、あそこから神の声も降りてくる、
それは古代ローマの宗教観にも、キリスト教にも通底する感覚のように、ケイには思えるのだった。

『ローマは大きいですね。』ひとことジェイがつぶやいた。
フィレンツェではあれほど饒舌に語り合ったのに、ローマではジェイもケイも寡黙だった。
一心に、全身で感じようとしているジェイに、ケイはときおり年代や解説を静かに語ったあとは、
すぐ自分の中に閉じこもってしまう。

パンテオンに程近い古くからあるバールでコーヒーをのみながら、ケイが口を開いた。
『ジェイ、私今日はまともにガイドができそうもないわ。悪いけれどこのあとは一人で歩いてくれる?』
『ケイさんはどうするんです?』
『ホテルのロビーでAを待つわ。』

『僕も行きます。』
『ジェイ、あなたは関係ないでしょう。それにせっかくのローマよ。
このすぐ先はナヴォナ広場で、その先にはテヴェレ川がある。
橋を超えてしばらく歩けばサン・ピエトロ寺院よ。そこだけは行くべきよ。』
『今一人で行っても、なにも目に入りません。あなたのことばかり考えてしまう。
彼が来るまで一緒に待ちます。』

   ***

ヴェネト通りからすこし入ったそのホテルは、モダンなデザインホテルだった。
黒っぽい緑のつやのある大理石を基調に、シックにまとめられたロビーには白い皮製のソファーセットが数組並べられていた。
ケイはレセプションでまだAが戻っていないのを確認し、奥のバーで待っているとメッセージを残した。

『彼が戻ったら、あなたもホテルへ帰ってね。いえ散歩してらっしゃい。』
『いえ、ここでケイさんを待ちます。』
『そんなことして欲しくない。』
『僕が待っていたら迷惑ですか?』

『これは私とAの問題だし、あなたを必要以上に巻き込みたくないの。』
『ぼくはもうとっくに巻き込まれていますよ。
でも僕のことは気にしないで。全て好きでやっていることです。それともAさんに僕のことを知られたくない?』
『そうじゃないけれど。』
ジェイが絶対引かないだろうことが、ケイにはわかった。

『ケイさん』
ジェイがまっすぐケイを見た。
ケイの瞳の底までのぞきこむような力強い視線だった。
ケイはまるで無防備な赤裸の子供のような気持ちになった。
やがてその子供をジェイの視線が、あたたかく包み込んだ。
『あなたは僕に、あなたの真実の姿をさらしてくれた。でも僕はあなたに、僕のことをほとんど話していない。』
『ジェイ、あなたが私に語った言葉、してくれたことの全てに、あなたの真実があるわ。』

『こんな出会いがあるんですね。』
『…』
『僕たちのことです。』
ケイは必死に言葉を探した。
『旅先だからちょっと特別に感じるだけよ。旅が終われば…』

『やめてください。心にもないことを。
ケイさん、僕がなぜあなたといたかったか、わかりますか。
あなたが僕をただの一人の男にしてくれたから。
余分な修飾語を一切取り払った、あなただけのジェイにしてくれからです。
そんなあなたのことを、そしてあなたが見つけ出してくれたジェイを、
ぼくがどれほど大切に思っているか、わかりませんか?』
耐え切れないほどの切実さに満ちたた言葉だった。

『ごめんなさい。わかっているわ。』
胸が熱く震えた。それに押されるように言葉がもれた。
『Ti amo J, ティ アーモ ジェイ、 愛してるわ、ジェイ。』
『僕もです。あなたを愛している。』

この言葉がこんなときに口をついて出るとは思わなかった。
頭に止まるまもなく、言葉はしらぬまに発せられていた。
ケイもジェイも、あふれ出てしまった言葉をいつくしむように黙ったまま、見つめあった。
やがてジェイが言った。
『でもAさんと話すとき、僕のことは忘れてください。』
『ええ、あなたとは関係なく、私彼に向き合ってくる。あなたと比較するようなことは決してしないわ。』

二人はだまってビールを飲んだ。
もう一度待たないでくれとケイが頼み、いや戻るまで待ちますと同じようにジェイが答えた。
『いつまで待つつもり?』
『ケイさんが戻るまでです。』
『戻らなかったら?そういえばこんなシーンをドラマで見たわ。』
『あなたは前を向いて生きる人だ。僕は信じています。』ジェイはケイの後半の言葉には答えずにそう言い切った。

ビールがなくなり、次に何を飲もうかと相談しているとき、Aがバーの入り口に現れた。
ジェイがいるのを見ても、動揺した素振りもみせず近づいてくる。

『やあ、ケイ、久しぶりだね。』と、立ち上がったジェイを無視して言う。
まるで、会わなかったのは1ヶ月ほどにすぎない、とでもいった口調だ。
『こちらは?』 静かに視線をジェイに向ける。
『ジェイといいます。はじめまして。』
『ああ、Aです。よろしく。』
名刺を出すのではないか、と一瞬ケイは思ったが、差し出したジェイの手を彼は握っただけだった。

『どうぞこちらに、よかったらビールでもいかがですか?』
ジェイが誘う。
Aはジェイとケイの間のスツールに座った。
三人ともビールを頼み、グラスを合わせる。乾杯の言葉はなかった。

『元気だった?』
『ええ、すこぶる元気だったわ。思い煩うことがなかったから。』
『ケイ、すこし変った?なんだか辛らつになったな。一人で長くいたせいか?』
『とんでもない、ただあなたに対して余分なものがなくなって、正直になったのよ。』

『彼とはいつから?』
『あなたに関係ないでしょ。』
『ケイ、オレに紹介しようと彼を連れてきたんだろう?』
『すみません、ぼくがかってについてきてしまいました。』

『いえ、いいんです。
僕もずっとケイのことを心配していたから、いい人とめぐり合えたなら祝福したい気持ちなんです。』
『祝福?これでやっと肩の荷がおりた、って意味かしら。』
『ケイ、そういうことは二人で、オレの部屋で話さないか?
それとももう話すすもりはないと、彼をつれてきたのか?』
『わかったわ。たいして話すこともないと思うけれど、ここまで来たのよ。
私も思い残すことのないように話して行きたいわ。』

ケイとAはジェイを残してバーを出た。
振り返ると、ジェイはケイに向かって、いつものやさしい暖かい微笑を送ってくれた。

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