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再生-イタリア紀行 with J #16 <6日目/ローマ②>

 

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通された部屋はスイートだった。
ソファーの置かれたスペースからベッドが見えないことが、ケイにはありがたかった。
『何か飲む?』
『頭が冴えるのは何かしら?』
『気もちを落ち着かせるのは、だろう?シャンパン開けようか?』
『いえ、グラッパにするわ。』
『すきっ腹に大丈夫か。やめとけよ。』
そういってAは赤ワインを開けた。

『好きだっただろう、これ。』
それはケイのお気に入りのトスカーナのワイナリーのもので、近年評価の高まっている一本だった。
わざわざ用意させたのだろうか。

だまってひとくち飲んだ。
素晴しいビンテージのものなのに、ケイには香りも味もほとんど感じられなかった。

『出世したのね。』ワインのことには触れずに、言う。
『経費で押さえられる部屋がスタンダードからスイートになった。』
『ああ、そういうことだ。しかしケイ、そんな言い方はやめてくれないか。』
『どんな言い方ならいいの?』

『すまなかった。』
『なにが?』
『君を苦しめた。』
『私を捨てた、と言い直して欲しいわ。』
『わかってくれていると思ってた。でも仕事以外にも色々あって。』

『いいえ、わかっていなかった。私のこともわかってもらえているとは、到底思えなかった。
で、どんなことかあったの?』
『君が入院したとき、見舞いに行こうとしたんだ。でも妻に君の事を知られてしまった。』
『あら、それまで知られていなかったのね。』
『ああ、知られたくなかった。あのころ妻は育児ノイローゼで、うつ病だったんだ。
病気が良くなったら話そうと思っていた。』

初耳だった。
彼女が病気だったことも。Aが彼女に自分のことを話そうと思っていたことも。

昂ぶっていたケイの気持ちが一気に沈んでいった。
『そうだったの。でもなぜ話してくれなかったの。』
『ケイにはいいカッコをしたかったんだ。ぶざまな自分をみせたくなかった。
家庭は修羅場で、仕事もまだ下積みの頃でつらい時期だった。
ケイに会っているときだけが、自分がこうありたいと思う自分でいられたんだ。
君だけがオレの唯一のよりどころだった。』

ケイはかすかにオレンジを帯びたガーネット色のワインを口に含んだ。
渋みが舌先からのどにかけて広がっていった。

『それでうそ臭い言い訳で、いえ、言い訳すらせずに、いつもわたしを待たせたってわけね。』
『すまない。』

これで全てが説明できる。確かに。
Aはすまないと謝りながら、どこか勝ち誇ったような顔をしていた。
決定的な事実を告げれば、許しはいとも簡単に得られると思っているように。
ジェイに会ったときの妙に余裕のある態度も、これでわかった。

『でもなぜ8年もほっておいたの。』
『そのあと、妻の病気が一気にひどくなったんだ。自殺騒ぎまで起こして。
誇大妄想みたいになってしまうし、オレは身動き一つ取れなかった。
実際、仕事以外の時間は彼女につきっきりでいるしかなかった。子供のこともあった。
たとえ君に連絡できても前よりもっと会えないし、なにも約束できないような状態だったんだ。』

それでも知らせて欲しかった。
それが関係というものだと、ケイは思った。関係を保ち続ける努力をこの人は放棄した。
同様に関係を断ち切る努力も、放棄したのだ。

『なぜ今になって話そうと思ったの。』
『ようやく妻も回復して、俺たち別れたんだ。』

その言葉はAとケイの間の空中に、宙ぶらりんのまま止まった。
ケイには返すべき言葉が何もなかった。
何を言っても違うという気がした。

からになったグラスに、ケイは自分でワインを注ぎ、グラスをまわして香りをたたせた。
収穫から8年がたったワインだった。

『ね、このワイン、私たちが別れた年に収穫されてできたワインよ。知ってた?
あの年はぶどうの当たり年だったのね。今までそんなこと考えずに飲んでた。
あなたも飲んでみなさいよ。すこし香りが出てきたわ。』

『オレにはよくわからないよ。』
Aはあまり酒が強くなく、ビール一杯が許容量だった。
そのことを忘れたわけではなかったが、この8年の時の積み重なりを、わずかでも共有してみたかった。

しかしケイは瞬時に理解した。
ケイが彼の8年を共有できないように、彼もケイの8年を共有できないことを。

『大変だったのね。』他人事のようにケイは言った。
『ああ、でもこれで君を待たせることもなく、会えるようになったんだ。』
Aの手がケイの頬に触れようと伸びてきたのを、ごめんなさい、と言ってケイはソファーの上のからだをずらした。

『ごめんなさい。私、もうあなたに会えないわ。』
『せっかく君と会えるようになったときには、君には別の男ができてたってわけか?』
『彼は関係ないわ。』
『どういう男なんだ?日本人じゃないのか?』
『彼は関係ないのよ。そのことがあなたにはわからない、それがそもそも問題なのよ。』

『あれほどオレを待っていてくれたじゃないか。』
『もっとも私も今ようやくわかったの。なぜ私があなたで満たされなかったのか。
あなた一度だって私を満たそうとしてくれたことがあった?』

『オレたち、あんなに求め合って、与え合ったじゃないか。』
『ええ、肉体はね。私が言っているのは魂のレベルの問題よ。
私があなたを通して知ったことはね、真の意味での孤独ということよ。
抱き合えば抱き合うほど寂しさがつのったわ。求めれば求めるほど孤独は深まった。
体は満たされているのに心が満たされていない、これってなんだろうと思ったわ。
私があなたを愛しすぎているのか、それとも全く愛していないのか、どちらかだと思った。』

Aは、なんのことを言っているのかわからない、という顔でケイを見た。

『どういうこと?ケイの言うことはいつも観念的で、オレにはわかりにくいんだ。わかるように言ってくれ。』
『あの頃私たちは、自分たちのことを真摯に語りあうことがなかったわね。
もっともそんな時間がなかった。私たち会っている時間のずべてをベッドで抱き合って過ごしたから。
でも私何通もあなたに手紙を書いたわ。
ただ頭に浮かぶ言葉の奔流に押し流されるように書き連ねていただけだったけれど。』

『ああ、ろくに返事も書かずに悪かった。
だけどよくわからなかったんだ。ケイが何を言いたいのか。何を求めているのか。
で、なにを言いたかったんだ。』

『あなたに望んでいたのはただひとつのことだったと、今ならはっきり言える。
ただあるがままの自分で、向き合って欲しかった。
それが、私の抱えている心の暗闇に対する唯一の方法だったのよ。
でもね、私もあなたに謝らなければならないわ。あなたの心の闇をさぐることをしなかった。
わたしたち、あのころ似たもの同士だったのかもしれない。
自分の平穏を相手に保障してもらうことばかりを一方的に求める、自分勝手なところがね。
互いの真実を差し出そうともせずに満たし合うことなんて、できるはずもなかったんだわ。』

『ケイ、オレたち、今ようやく向きあえるようになったのかもしれないな。
やりなおさないか。』

その言葉も、Aとケイの間の中空に止まった。
ケイはしばらく黙っていたが、やがて口を開いた。
ここまで言わなければならないのかと、気持ちが沈んだ。

『あなた、なぜ人の返事も聞かずに電話を切るの?
なぜ8年も何も言わずにいたくせに、こんな強引なことをするの。
ノーの返事を聞くのが怖いからでしょう。
ポンと賭けのように言葉を投げて、つぶやく。表なら続けよう。裏なら、そのときはあきらめるさ。』

『ああ、オレはいつも自信がなかったんだ。
今回だって、来てくれるか来てくれないか、確かに賭けのような気持ちだった。』
『来なかったらどうしたの?』
『でも君は来た。』
『私の取材の日程を調べたのね。それでローマで、このホテルでと言えば、私は必ず来ると確信した…。
そして奥さんと別れたと言えば、私たちまた始められると思った。
正直に言ってちょうだい。奥さんと別れたのは私のためなの?
違うでしょう。』

『お見通しなんだな。離婚は彼女から切り出されたんだ。
でもずっとケイのことを想ってたのは本当だよ。信じてくれ。』

大きく息を吸って、ケイは続けた。
『8年前、私はあなたの都合のいい女だった。』
『オレがセックスのためだけに君に会っていたっていうのか?』
心外だと言う顔をしてAが答えた。

『違うわ。そんなことを言っているんじゃない。
私がこころの拠り所だったと、あなた言ったわね。そのことよ。
あのころ、あなたが造り上げた、あなたの見たいイメージを与えられて、私、知らずにそれを演じていた。
この8年、あなたが描いていた私だって同じ。それは生身の私とは似ても似つかない女よ。
あなた今回も、こうありたいと思う自分を演じられる条件が整ったかから、こうして連絡してきたんでしょう?
8年かけて造り上げた理想の女に。
でももう私は昔の私じゃない。
私、見てしまったのよ。私たちのおろかさを。
8年たって、わたしたちこれほど遠ざかってしまった。』

Aが飲もうとしないワインを、ケイは再び自分のグラスに注いだ。

さっきは渋みだけが勝った固い味だったのが、程よい酸味が加わり、豊かでまろやかな味わいになっていた。
ベリーのような果実の風味もかすかに残っているが、
強く感じられるのは森の湿ったコケのように落ち着いた深い味わいだった。
そのなかにスパイシーな香味がたちあがり、これから大きく開いていくつぼみのような、華やかさが感じられた。
そして甘いバニラの、官能的な香りが最後に残った。

『Yも、君の心の闇を埋められなかったんだろう?』
『ええ。』
『ひとつだけ、教えてくれ。それなのになぜ彼の子供を産もうとしたんだ。』
『Yはね、理解できないものがあっても、それをそのままにして、丸ごと私を受け入れてくれた。私に過分な期待もしなかった。
黙って、いくらでも私の話を聞いてくれるひとだった。だから彼を、私は信頼することができた。
あの時は、孤独を抱えたままでも、その信頼だけで生きていけると思ったの。』

グラスに残るワインを飲み干すと、ケイは立ち上がった。
『ごちそうさま。美味しかった。』

Aも立ち上がったが、何も言おうとしなかった。
唇がはりついたように言葉を失っているのがわかった。

『あいさつぐらいしてよ。』ケイがそう言うとようやく口を開いた。
『なんて言っていいかわからないんだ。』
『8年前に私に言えなかったことよ。』
『君を引き止めたい。でも引き止める言葉がひとつも見つからないよ。
君を愛していたんだ。君を幸せにしたかった。いや君と幸せになりたかった。
でも結局は傷つけるばかりだった。すまなかった。
何が悪かったんだろう。どうすればよかったんだろう。オレはしばらくこのことばかり考えるんだろうな。
でもね、ケイ、さっき言ったことは本心だよ。
もし今君が幸せをつかもうとしているのなら、心から祝福するよ。』

『ありがとう。あなたから聞いた今迄の言葉の中で一番暖かい言葉だわ。
それから私も同じ気持ちだということ、覚えていてね。
私たちようやくいい友達としての関係を、始められるかもしれない。
今日話ができて良かった。』
ロビーまで送ると言うかと思ったが、Aはそれ以上なにも言わなかった。

ケイは静かにドアを閉めた。

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