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石の記憶 Ⅰ --From Ostia Antica ①

 

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Ⅰ --From Ostia Antica ①


ジェイを見送ってから一週間。
シチリアでの取材が終わり、ケイは再びローマの空港に降り立った。

あの日の胸をえぐるような痛みが甦る。
夜、シチリアのホテルで、ジェイからの電話によってその痛みが静かに癒えていったことも…

ジェイ、私またローマに来たわ。
あなたの記憶が風のように私を満たす、ローマに…

タクシーで15分ほどのオスティアに向かう。
城壁の門をくぐると中世の家並みが小さな集落を作っている。
広場をかこんで、教会や円筒形の塔とそれに続く城、
そしていくつかの低い建物が残っている。そんな家の何件かが、
一帯に農園を経営しているチェンチ家によって宿泊用の施設に改装されていて、
ケイはここで数日を過ごすつもりでいた。

小鼻にピアスをし、おへそを出したフランチェスカが、いつもの部屋に案内してくれる。
彼女はチェンチ家の次女で、いかにもローマっ子らしい明るさとおおらかさがあって、
ケイともウマが合った。

「変わりなかった?」
「ぜんぜん。
そういえばケイ、一人で来るの初めてじゃない?どうかした?」
「そうね、いつも友達と一緒だったわね。
今回はシチリアの取材がちょっとハードだったんで、ここで少しのんびりしたくて来たの。
なにも考えずにたっぷり眠って、
久しぶりにエレーナおばあちゃんのおいしい料理を食べて、遺跡を歩いて…」

ジェイと、ここに来たかった。
オスティアの遺跡を、古代の石の街を、二人で歩きたかった。

「ケイ、どうしたの、ぼんやりして。本当に疲れてるみたいね。ゆっくり休んで。
おばあちゃんが夕食は庭のかまどでピザを焼くって。8時ころでいいかな」
「わー、嬉しい。きのこたっぷり入れるよう頼んでおいてね」
「OK、わかってるって」

ジェイに、エレーナおばあちゃん自慢のかまどで焼いたピザを食べさせたかった。
あれから、何かおいしいものを食べるとジェイを思い、美しいものを見るとジェイを思った。

荷物を置いて遺跡に向かう。
5分も歩けば古代ローマの港町、オスティア・アンティーカだ。

小麦や果物、オリーブオイルやワイン、大理石などの建築資材、織物や装身具、
そしてコロッセオの見世物のために、アフリカから連れてこられた豹やライオンが、
テヴェレ川を溯ってここからローマに運ばれた。
やがて川の流れが変り、いつしか見捨てられ、砂に埋まってしまった街。
しかしそのために、ポンペイと同じように栄枯と盛衰をそのまま今に伝える街。

両側に松の木が並ぶメインストリートを歩く。
石畳が敷かれた幅広の道には、往時は賑やかに馬車が走っていたことだろう。
その石畳も時の流れにすっかり磨耗し、あるいは失われ、
今は平たい石が、だらだらと土の上に顔を出しているにすぎない。

しばらく行くと住宅や共同浴場が軒を連ねる街の中心街だ。
右手にインスラという集合住宅の跡がある。
レンガの壁に囲まれた部屋が連なり、奥には階段も残っている。
その階段を登り切ると、天井や壁が崩れ落ちた、テラス状の展望台になっていた。

ケイはそこから、すぐ裏手の公衆浴場を見下ろした。
床には白と黒の大理石で描いた、
海馬に乗ったネプチューンの躍動的なモザイク画がそのまま残っている。
目を少し先に転じれば、あちこちに秋の陽射しをあびて黒々と枝を伸ばした松の木が見渡せた。
その梢を揺らして、一陣の風が吹いた。

ジェイ…
そっと呼んでみる。
ケイの声は、あとからあとから梢を揺らし続ける風の音に混じって、遺跡の中を渡って行った。

階段を降りて、また中央の通りをたどる。
劇場を過ぎた少し先に食堂がある。
道路に面した外壁はかなり崩れてしまっていたが、いくつかの部屋を仕切る壁や、
その壁にかけられた、大理石のモザイクで描かれたメニューなどが残っていた。

かまどはこのまま煮炊きができそうなくらいしっかりとしている。
ケイは食堂に入り、狭い店内を見回し、庭に出た。
小さな庭には緑の下草が生え、大理石の丸い水盤が置かれている。
もちろん水盤に水はない。
かたわらのベンチに腰をおろす。

私はこの近くの屋敷に生まれた。
唐突にケイはそう思った。
ジェイと一緒に、戯れに物語を紡ぐことができないのは寂しかったが、
今ケイは一人で、時の流れの襞の中に滑り込んだ。

レンガの壁の向こうから、少年と少女の声が聞こえてくる。
少年は少女に何かからかいの言葉を投げ、少女が怒って追いかけている。
やがて少女が追いついたのか、ふと笑い声がやんだ。
その静寂はなにを意味しているのだろうか。
壁の奥を覗いて見るまでもなく、ケイには二人の姿が見えた。

私は、オスティアのこの先の家の娘で、
来年にはヴェスタの神殿の巫女につかえるため、ローマに行くことになっている。
まだ神殿に入ったばかりの幼い巫女の、教育係兼身の回りの世話をする女官に選ばれたのだ。
今は父親の指図で、パンの焼き方や料理を覚えるようにと、
この食堂で見習いのようなことをしている。

食堂の主人からパンの生地をこねるように言われて小麦粉を練っていると、
ジェイウスが顔をのぞかせた。

あのいたずら好きな少年も、いつの間にか立派な若者になっていた。
母方の遠い親戚にあたるジェイウスは、
ローマの元老院の一員である彼の叔父の秘書として一年前からローマで暮らしていたが、
故郷に帰って来るたびに私をからかいにやってくる。
それが彼の愛情表現だと心の底では知っていたけれど、私は気づかぬふりをしていた。
幼馴染の親密さに、淡い恋心めいたものが混ざったものにすぎないのだと。

その日も彼はいたずらっぽい目をして私の前に立ち、
やあケイディア、元気?と言うと、じっと粉をこねる私を見つめた。

『見た通りで私忙しいのよ。だから昔見たいにあなたと遊ぶヒマはないわ』
私はなぜか幼いころのように気安い口調で話すことができない。

しかし彼は意に介さず、これでも?といきなり麺棒を手に取ると庭に走り出て、
ほらっ、取りに来ないと井戸に投げ捨てるぞ、と叫んでいる。
『もうっ、いい歳していいかげんにしなさい』
知らずに昔のように乱暴な言葉になる。
追いかけていくと、彼は愉快そうに笑いながら庭の中を逃げ回っている。

なかなか追いつけないのにいらだって、私はいきなりお腹をかかえてしゃがみこんだ。
いたたっと顔をしかめて見せると、あんのじょう彼が近くによってくる。

『だいじょうぶ?ねえ、大丈夫かい? ごめんよ。これ返すよ』
彼が麺棒を差し出すのを掴み取ると、私は勝ち誇った高笑いと共に、屋内に駆け込んだ。
『こらっ、だましたんだな』
追いかけてきた彼が私の腕をつかみ引き寄せた。
あっと思う間もなく、私は彼の腕の中にいた。

何年か前のことを思い出した。同じように追いかけたり、追いかけられたりしていて抱きすくめられ、
おずおずと唇を重ねた時のことを。
そのあと、彼はぷいと怒ったようにからだを離して、二度と私に触れようとしなかった。

今、あの時のように私は彼の腕の中にいる。
しかしなぜか二人とも離れることができない…
先に我に帰ったのは私で、そっと彼の腕から逃れようとしたが、
彼は一層力を込めて私を引き寄せた。

なぜ胸の鼓動が高鳴るのか、なぜ彼の体がこれほど熱く感じられるのか、
そしてなぜ自分たちの呼吸がこれほど早まっていくのか、私にはわからなかった。
わからなかったけれど、身体を離さなければとんでもないことになると思った。
あの時とは違う、なにもかもが違っている。

でも彼は力強く私を捉えていて、その腕を振り払うことができそうもない。
私は彼の顔を仰ぎ見た。いつの間にこれほど背が高くなっていたのだろう。
いつの間に彼の胸はこれほどたくましくなっていたのだろう。
その瞳は、風に揺れる熟れたオリーブの実のように艶めいて輝いている…

見つめられるとその瞳に吸い込まれそうだ。
だめだ、彼の目を見たらだめだ、私は自分を戒めて目を閉じた。
しかし彼はそれを別の意味にとったようで、いきなり唇がふさがれた。
手に持っていた麺棒が、からんと音をたてて石の床に転がった。

その日のパンの出来は散々だった。
水分がとんでしまい、生地をうまくのばすことが出来ず、
かろうじて捏ね上げて焼いたものの、かたくぱさついていた。
食堂の主人には怒られ、客からは金を払ってもらえなかった。
しかし主人の小言も客の文句も、私は他人事のように聞き流した。

頭の中は彼のことでいっぱいだった。
はじめはぎこちなく交わしていた口づけに、どうしてあれほどのめりこんでしまったのか、
主人が様子を見に来た足音にあわてて身を引き剥がすまで、
なぜ身体を離すことができなかったのか、
私はいったいどうなってしまったのか、
考えても仕方のないことが頭をぐるぐると駆け巡っていた。

まるで逃れようとしてもいつも同じ道に戻ってしまう迷路に、迷い込んだようだった。
出口は全く見えなかった
先に進む道すら、定かではなかった。

しかしあとから思えば、あのとき、私はまだなんの苦しみも知らずにいたのだ。
これから自分がその迷路を長くさまようことになるのを、知らずにいたのだ。

   
気がつくと陽は傾き、大理石の水盤の落とす影が長く地面に伸びていた。
劇場をゆっくりと見たかったのだが、間もなく閉館時間だ。
ケイはここで夜を明かしたい気分だったが、急に冷え込んでもきたし、やはり帰るしかないだろう。

通りに出てみると秋の残照が濃い影を作って遺跡を包み、
道の両脇の松の木が、薄い西日に木の肌を輝かせている。
そのなかの一本が、ひと気のない食堂のテーブルの前で唇を重ねたまま身じろぎもしない、
遠い日のオスティアの若者と娘に重なった。

秋の陽が落ちるのはあっという間だ。宿に帰るころにはあたりはすっかり暗くなっていた。
昔は日暮れと同時に閉ざされただろう城門をくぐると、
ケイの泊まる家のドアのあたりと、
フランチェスカが8時まで詰めているレセプションを兼ねた建物の一角だけが、
ぼんやりとした明かりに照らし出されている。

他の部屋には客もいないのか、集落はすっかり闇に包まれていたが、
東の家並みの端に月が昇り始めていた。

一人の部屋に戻る気がしなくて、
レセプションでフランチェスカをからかって時間をつぶしたあと、連れ立って母屋に行く。
エレナおばあちゃんのピザはやはり絶品だった。
生地はピッツェリアで出されるほどぱりぱりとはしていない。
しっかりとした食感で、小麦の味が口いっぱいに広がる。

その生地の上にポルチーニ茸のスライスがおしげもなく乗っていて、
森のキノコの香りが食べる前からあたりに漂い、食欲をそそった。
もう一種類は唐辛子を利かせたシンプルなトマトソースにモッツァレラチーズだけで焼き上げ、
生のルッコラを山盛りにのせたもの。こちらもケイの好物だった。

農園の畑で取れた大振りのナスとアーティチョークのオイル漬けは、
ピザに乗せて焼いても、そのまま食べても美味しい。
素朴な家庭の常備菜なのだが、ケイにはなつかしいおばあちゃんの味だ。
瓶にわけてもらって少し持って帰ろう。
ジェイに送ってあげなくちゃ、などと考えている自分に気づいてケイは苦笑した。

フランチェスカに様子が変だとからかわれ、
おばあちゃんに好きな人のことでも考えていたのだろうと見破られ、
結局ケイはマッシモ家の面々にジェイのことを語ってきかせた。

思った通り、彼らはただ黙ってケイの話を聞き、ジェイとの出会いを祝福し、
彼の不在による心の隙間を温かく埋めてくれた。
不思議なことに彼らに話したことで、
自分とジェイとの関係がより現実味を帯び、確かなものになったような気がした。
自分たちのことを知ってくれ、見守ってくれる人たちがいるということが、驚くほどの力になっていた。

フランチェスカに車で送ってもらい、部屋の前で空を見上げる。
雲が切れ、月が顔を出していた。きれいな満月だった。
そのまばゆい光を一緒に浴びたいひとは、ここにいない。
せめてその人のことを考えながら、今夜は月の光を浴びていよう。
広場には水の流れる音だけが響いている。

ローマ時代に山から引かれた水道が、今も変らず水盤に水を吐き出しているのだ。
これが本当のミネラルウォーターさと、いつだったか通りかかった土地の男が話しかけてきたっけ。
飲んでごらん、おいしいからと。
ケイは蛇口から流れ出る水を両手に受けてみた。澄んだ冷たい水だった。
手の中の水が月の光を浴びて金色に輝いている。
ケイは口をつけて、まるで月の光を飲むようにその水を飲んだ。

静かに水盤のまわりを一周する。
足元からさっと猫の影が動いて、建物の近くの植え込みの中に消えた。

部屋の前の石段に腰をおろし、携帯電話を取り出す。
ソウルはもうすぐ午前8時。
ジェイは今日は次の仕事の打ち合わせのために出かけると言っていた。
でもその前に電話すると。

8時15分…
8時20分…

こうして電話を待つのがこの一週間の習慣になってしまった。
夜眠る前のひとときを、ジェイの声を待って過ごすのは幸せだった。
今起きたところだろうか、それとも朝食を食べているところか…
いくらでもジェイの姿を追いかけて、待っていられた。
そしてジェイの声を聞けば、たとえ短い言葉しか聞けなくても、それだけでケイは満足だった。
それだけで、一人の夜が安らかなものになるのだった。

8時32分… 電話のベルが、鳴った。


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●Ostia Antica オスティア・アンティーカ
古代ローマの遺跡というとナポリ近郊のポンペイが有名ですが、
このオスティア・アンティーカもポンペイに負けず劣らず、
古の人々の暮らしを今に伝えてくれる遺跡です。
ローマの空港から車なら15分程度。
ローマ市内からは地下鉄と列車を乗り継いでアクセスできますから、
半日から一日の散策に最適です。
本文にもありますが、昔はテヴェレ川の河口に広がった港町で、
広大なローマ帝国から首都ローマへと、
様々な物資がここに陸揚げされ、テヴェレ川を溯って運ばれました。
往時は本当に栄えた街でしたが、やがて川の流れが変ると共にさびれ、見捨てられ、
砂に埋まってしまったのです。
しかしそのおかげで街は二千年の時を眠り続け、
ローマ帝国の人々の豊かな暮らしを今に伝えてくれます。
これからこの物語の重要な場面となる劇場や居酒屋などのほか、
神殿や公衆浴場、商店街や共同住宅などが残っています。

またケイが泊まっている農家はアグリツーリズモと呼ばれる宿泊施設で、
実在するものをモデルにしています。私もここには二度ほど泊まっていますが、
一帯にはお城や教会に加え古い家並みが残っており、中世の雰囲気が漂っています。
このアグリツーリズモはなかなか居心地が良く、のんびりとした気分を味わえます。
自家製の食材を使って供してくれる郷土料理も美味しく、
もちろんリクエストにより庭の竈でピザを焼いてくれます。

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