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石の記憶 Ⅱ --From Ostia Antica ②

 

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Ⅱ  --From Ostia Antica ②


朝食が済むと、すぐに遺跡に出かけた。
まっすぐ劇場を目指す。

今日は何組かの観光客がぱらぱらと散らばっていて、歩きまわったり、
オーディオガイドのヘッドフォンを耳にあてて、崩れた遺跡の石をみつめたりしている。

劇場に入る。 
紀元2世紀には3500人を収容することができた劇場である。
半円形のすり鉢状に、灰色の石で作られた客席が舞台を取り囲んでいる。
その中央、一番高いところに腰をおろす。
正面の舞台の上には白い大理石の石柱が並び、
その向こうには奥に長い長方形の、
同業組合のフォロと言われる広場がびっしりと松の木に囲まれて広がっている。

遠い日、舞台手前下のオーケストラ席に水を張って、オデュッセイスの劇が上演されたことがあった。
水に船を浮かべて繰り広げられる海戦シーンや、セイレーンの歌声に海中に引き込まれないように、
オデュッセイスが船のマストに身体をしばりつけて海を渡るシーンなどが呼び物だった。

あれは、私がローマの神殿に入る日どりが具体的に決まったころのこと。
両親はあまり演劇が好きではなかったのだが、このあと何年も神殿住まいとなる娘を哀れんでか、
観劇に連れ出してくれたのだった。

私たちは階段席の上部少し右手の、そうあのあたり、
石柱に屋根を乗せて日陰を作っていた席のひとつにすわっている。
場内は満員で、傾いた日差しはまだ強かったが、テヴェレ川の流れが変るずっと前のことで、
フォロの向こう、右から左に海に向かってゆったりと下る川から涼やかな風が吹いていた。

アレクシウスが私の隣にいる。
彼は幼いころ親同士が決めたいいなずけ。
私の神殿入りでこの話はご破算にしてくれと父が申し入れていたが、
以前と変わりなく我が家に出入りしていた。
父の申し入れに対しては、神殿勤めが終わるまで私を待つと言い張っていて、
私も両家の親たちも困惑していたが、
長く家族同様につきあってきたのを急に変えることもできない。

しかし、兄と妹のように育ってきた彼に、私は以前のように気軽に接することができなくなっていた。
彼はそれを神殿に入る日が近づいてきたためだととっているようで、
それ以上理由を聞かれないことが、私にはありがたかった。

今、私の心を占めているのは、オデュッセイス。
柔らかに波打つ栗色の髪に黒い瞳、
端正な横顔を見せてたたずむ長身の姿は、とてもあのジェイウスとは思えない。
ギリシャ風の筒状の衣服は肩から斜めに流して着付け、腰を細紐で結わえただで、
鍛えられたたくましい胸も、すらりと伸びた脚もむき出しにされている。

オデュッセイスは流れ着いた島のニンフ、カリュプソと共に暮らしていた。
そこは、一つ目の巨人を欺き、遥か地の果てまで流され、人食い島に上陸した部下を失い、
セイレーンの声の流れる海を渡り、また何度かの嵐や戦いに全ての部下を失い、
最後に一人流れ着いた島だった。

カリュプソは心根の優しい美しいニンフだ。
オデュッセイスは故郷に残した妻と子を一日たりと忘れたわけではなかったが、
幾多の苦難を乗り越えたあと、カリュプソの愛に身を委ねるのは心地よかった。
知らぬまに何年もの月日が過ぎていた。

カリュプソとオデュッセイスが、春の野を散歩している。
水を浴びようと泉に入るカリュプソをおいかけ、オデュッセイスも水に入る。

水と戯れている二人。
子供のように水しぶきをあげ、手ですくっては相手に振り掛け、はしゃぎ、
楽しそうに笑いあっている。
ふとカリュプソがオデュッセイスにしなだれかかり、彼の胸に手を置いてささやく。

――ねえ、あなた。私たちほど似合いの恋人はいないわね。
   ヤキモチをやいて、花はしおれ、蝶は空高く飛び立って降りてこない。
――それはそうだが、花がしおれてはつまらない。蝶がいなければ実も結ばない。

オデュッセイスはニンフから離れると、憂いを帯びた横顔を見せながらゆっくりと水から上がり、
舞台の上を森に向かって歩き、空を仰ぎ見て、つぶやく。

――カリュプソはよくしてくれている。おかげで私の疲れは癒え、今では力が有り余るほど。
   私はよく戦い、使命を果した。全ての部下を失ったとはいえ、
   そろそろ故郷に帰ってもいい頃だ。
   妻は私を待っていてくれるだろう。しかし息子は、息子は私を忘れてはいないだろうか。
   いやあの美しい妻だって、誰かに言い寄られて、私を待つことに倦んで、
   息子とともに乞われた人の家に入っていはしまいか。

カリュプソが、そんなオデュッセイスをじっと見つめ、言った。
――あなた、私たち恋人でいるのをやめましょう。

はっとオデュッセイスが顔を上げ、カリュプソの元に戻り、
彼女のほっそりとした手をとり、じっとその目に見入る。

――私たち、長い間恋人同士だったわね。
   天にも地にも私たちほど強く思いあう恋人はいなかった。
   私たちの愛がこの島を覆いつくして、島の自然がすっかり変ってしまったほどに。
   あなたの言うように、花も蝶も、島には無くてはならないもの。
   オデュッセイス、取り戻しましょう、全てを。

――カリュプソ、すまない。私はおまえの愛に包まれて幸福だった。
   これ以上ないほど、満たされていたよ。
――ええ、あなた、私もよ。
   だから私たち、結婚しましょう。

虚を突かれて、オデュッセイスが息を呑む。
――しかし私には故郷に妻も子も…

――オデュッセイス、その故郷は地の果てより遠いわ。
   あなたが戻る前に歳月は過ぎ去り、たとえ故郷にたどり着いても、
   そこには前と同じものはただひとつも無いのよ。
   それよりここで私と結婚して、花を愛で、蝶と戯れましょう。
   結婚すれば、花も蝶もあきらめてヤキモチなんてやかなくなるから。

オデュッセイスの胸にカリュプソが顔をうずめる。
長い黒髪を、オデュッセイスは静かに撫でる。
しかしその目は暗く沈み、遠くを見つめるばかり…



『なんだってジェイウスは役者なんかやってるんだ』
唐突にアレクシウスが言った。

これからがクライマックスなのに、どうしてアレクシウスはこんなことを言うのだろう。
私が魅入られたように舞台を凝視しているのが面白くないのか。

舞台ではオデュッセイスが、なんとか結婚を思いとどまらせようと、
カリュプソに甘い言葉をかけている。
結婚したらこんな甘美な恋人同士の時間はなくなるだの、
いつまでも恋人として愛しい人を崇拝していたいだの…
歯の浮くようなセリフだが、ジェイウスが深く響く声で語ると、
客席のほとんどの女の目がとろんとしてしまうのを私は見た。
私は舞台の上のオデュッセイスから目が離せず、彼の声に胸がざわつき、
女たちの反応に気持ちが乱れた。

アレクシウスの質問に母が答えた。
『彼の叔父様がこの出し物のスポンサーでしょう? 
それで手伝っているうちに戦闘場面が面白そうだと兵士役で出ることになったんですって。
そしたら主役の役者が怪我をしてしまって。だから代役なのよ。
でもあのジェイウスにこんな才能があったなんて。ねえ、あなた』

呼びかけられた父が気の無い様子で言う。
『あのやり手の叔父上のことだ。次の選挙の票稼ぎに甥っ子も動員したんだろう』

『しかし全てのご亭主連中は気が気じゃありませんよ。御覧なさい、ご婦人方の目を。
これではたして票集めになるのか。
それにあいつだって、こんなことをしてるより他にやることがあるだろうに』

アレクシウスらしい物言いだった。冷静で、理性的で、正確な分析。
今までは好ましかった、情より理が勝った彼の性分が、
急につまらなく、疎ましいものに感じられる。

舞台の上ではオデュッセイスがオリンポスの神々に祈っている。

――ゼウスよ、神々よ、私はどうすればいいのか。
   旅に旅を重ね、ここまで来た。全てを失い、残ったのはこの身ひとつ。
   故郷イタケの島は遥かに遠く、帰る手立てはない。
   しかし、孤独と絶望に狂って死のうとしていた私を、救ってくれたのはカリュプソだった。
   だれよりも激しく私を求め、だれよりも深く私を満たした。

   彼女の気もちを思うと…、
   ああ、ゼウスよ、神々よ、
   私になにができるというのか。
   私だって愛したのだ。どうして愛さずにいられよう。
   カリュプソはこの島そのもの。
   朝に寄せる波が砂浜に貝を埋め、夕に吹く風が梢の木の実を落とす。
   彼女は私を日々養ったこの島そのもの。
   そんな命の糧をどうして愛さずにいられよう。
   カリュプソがいなければ、私はとうに死んでいただろうに。

   なのに、私の心に兆す、この思いは何なのか。
   神々よ、ゼウスよ、あなた方ならわかるだろう。
   故郷を思う気持ちが。
   妻と子を思う気持ちが。

   私の家族は、私が無事でいると思っているだろうか?
   生きて帰ると、信じているだろうか?
   私を、待っていてくれるだろうか?
   こうして愛しく思い出していることを、知っているだろうか?

   神々よ、ゼウスよ、
   私の愛は、私の心はひきさかれんばかり。
   叶うことならカリュプソと夫婦となり、私もこの島の一部となって暮らし、やがて朽ちて、
   本当に島そのものになってしまいたい。
   しかし叶うことなら、どれほどの長い旅路となろうとも、たとえ老いさらばえても故郷に帰り、
   わが妻と子をこの腕に抱いてから死にたいもの。
   心が引き裂かれるなら、ああ、神々よ、ゼウスよ、
   いっそこの体も真っ二つに引き裂き、
   ひとつをカリュプソに与え、ひとつを故郷に向かう潮に乗せて流してほしい…

長いオデュッセイスの独白に、劇場は静まり返っていた。
舞台の右奥の木の陰で、カリュプソがこの祈りを聞いて涙を流している。
しかしカリュプソだけでなく、客席の全ての女と男が、
オデュッセイスとカリュプソの行く末に心を奪われていた。
軽口をたたいてアレクシウスさえ、いつもと同じ冷静な、
しかし興味深げな眼差で、じっと舞台を凝視していた。


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●ギリシャ神話『オデュッセイス』について
ギリシャ神話の中のホメロスによる二大叙事詩といわれるのが、
トロイア戦争を扱った「イーリアス」と、
その戦いに参戦し勝利を収めた側のオデュセイスの、
その後の放浪と冒険の旅を描いた「オデュセイア」です。
ジェイウスが演じるのはその冒険の中のほんのひとつのエピソード。
カリュプソとの切ない別れのストーリーの大筋はギリシャ神話をそなままなぞっていますが、
交わすセリフや細かなエピソードは大幅に脚色(捏造?)しています。

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