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石の記憶 XⅢ  --From Roma ⑨

 

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XⅢ  --From Roma ⑨




夏が過ぎ、風が冷たさを増していき、
深まった秋が終わりを迎え、
私はジェイウスの帰りを、砂漠で雨を請うように待ちわびていた。
が、リディアはどうだろうか。

皇帝もエミリウスも相変わらず巫女の家に出入りしている。
私は、皇帝たちにあでやかに接するリディアを見て、
彼女はジェイウスのことをあきらめたのだろうと思った。
いやそう思いたかった。
きっとあの恐ろしいヒステリーで、
憑き物が落ちたようにジェイウスに対する未練を捨てたのだと。

時々、浅い眠りの夜が明ける間際に、
リディアの狂態とジェイウスが彼女の裸身を抱き止める夢を見て目覚めることはあったが、
マロの語るジェイウスや、手紙の文面から浮かび上がるジェイウスを思って、
胸の底に巣食う不安を打ち消した。

ある日、冬用のしつらえにと頼んでいた布地を持って、マロがやってきた。
帰り際に、5日後に休暇を願い出なさい、と言う。

『どういうことなの?』
『いいから、黙って言う通りにして』
『どうせ1泊ぐらいしか取れそうもないわ』
『それでいい。もちろん行き先は叔父さんのところよ。
でもその前に私たちの店に寄ってね』

ジェイウスの出発以来初めて願い出た休暇は、あっさりと許された。
その日、供の奴隷を一人連れ、
私はマロの弟夫婦がやっているという市場の店に立ち寄った。
驚いたことに、そこは珍しい布地や装身具を扱う、なかなか繁盛している店だった。

マロは追加で頼まれた布地がちょうど届いたところだから、
奴隷に持って帰らせたらどうだろうと言う。
私のことは、自分がチェリオの丘に行く用事があるので、ついでに送っていくから、と。
奴隷は、せっかくだから市場の食堂で甘いものでも食べてお行き、
とマロが小銭を手に握らせると、
顔を輝かせて布地の包みを受け取った。

奴隷が市場の喧騒に紛れたのを見計らって、マロと私は店を後にした。
行き先はチェリオの丘とは反対方向のクイリナーレの丘だ。
着いたところは叔父の家ほど大きくはないが、立派な構えの邸宅で、
門をくぐった中庭もよく手入れされていた。
館は人の気配もなく静まり返っている。
マロは案内も請わずに奥まった一室に私を導いた。

薄暗い部屋に、窓から差し込む逆光にシルエットとなった一人の男がいた。
外を眺めていたその男が、振り向いた。
私に向かって近づいてくる。

『ケイディア…』
聞き覚えのある声… 
その声は… 
『ジェイウス?』

思いもかけないことに、一瞬耳を疑った。
『ジェイウスなの?』
その問いに応えたのは言葉ではなく、私を抱きしめるジェイウスのたくましい腕だった。

『ああ、ケイディアなんだね。本当に君なんだね』
ジェイウスは私をよく見ようとしてか、窓辺に私を誘った。
しかしこれがあのジェイウスなのだろうか。
肩まで伸びたごわついた髪、血走った目、無精ひげの生えたざらつく頬。
再び抱きしめられて一段と厚くなった胸に顔を押し付ければ、
むせ返るような男の匂いが私を包んだ。

そうだ。ジェイウスだ。
彼の、焼けた夏の石のような汗の匂いを、私は胸いっぱい吸い込んだ。
それは、匂いもぬくもりもない夢ではなく、
手紙の言葉から立ち上る、理念や感性が形づくる人の姿でもなく、
重みも弾力もある肉体を持った一人の生きた男、ジェイウスだった。

私たちはマロがいることも忘れ、唇を重ね、きつく抱き合った。
言葉より何より、生身のジェイウスの体を、自分の手で、自分の体で感じたかった。
現実の肉体を確かめあいたかった。
髪や、首筋や、胸や背中、腰などをまさぐりあいながら、唇を吸い、
舌をからませ、また唇を重ねた。

『ちょっとあんたたち、そのままベッドに行くなら寝室は隣よ』
マロの言葉に、初めて私たちは我にかえった。

するとマロが、私をおしのけてジェイウスに抱きつく。
『ジェイウス、お帰り。私にも』
そう言って差し出した唇に、小鳥のついばみのようにジェイウスの唇が触れた。
ほんの戯れにしたことのようだったが、それをのがすようなマロではない。
ジェイウスにかじりついて力いっぱい唇を押し付けている。
マロ、やめて、やめてよ。私は二人を離そうとマロの腰に腕をかけ、思いっきり引張った。

『おまえたち、何やってるんだ』
男の声に驚いて振り返ると、戸口にアレクシウスが立っている。
『誰にも知られずに来い、なんて秘密めかして人を呼んでおいて、これはどういうことだ。
まったくあきれてものもいえない。
神殿勤めの女官と辺境の百人隊長が、
どっかの商店のおかみさんと何をやってるんだ、えっ?』

『あら、失礼ね、おかみさんてひとをバカにしたように言わないでよ。
そんな口のききかたじゃ、せっかくの色男が台無しだわ。
ジェイウス、ちょっとこいつに女に対する礼儀ってものを教えてやってよ』
『ふん、おまえが女だったら、市場にいるじいさんも洟垂れ小僧もみんな女になるな』
『なんですってー』

憮然としてにらみあうマロとアレクシウスを見て、ジェイウスが笑い出した。
こらえられずに私も笑った。
やがてアレクシウスがジェイウスに近づき、二人は背中をたたきあい、肩を抱きあった。

『よく帰ってきた。元気そうでなによりだ。
ところでこの邸宅は誰のものなんだ?なかなかいい隠れ家じゃないか』
『僕のものだ。正式に叔父の養子になった祝いに、叔父からもらたんだ。
アレクシウス、君も貫禄が出てきたな』
『おまえがちょっとむさくるしくなった分、オレの男前があがったってことさ』
『ははは、許してくれ。一睡もせずに馬を飛ばしてきたんだ。すぐに風呂に入るよ』

『おい、オレは軍務の途中なんだ。
風呂はあとにしてさっさと用件を言えよ。
それよりジェイウス、おまえ帰ってくるのはあさってじゃなかったのか?』
『どうしてそれを?』 

『まあ、とにかくあっちで座ってゆっくり話しましょうよ。
ちょっと誰かワインとお水、それに何か食べるものをもってきて』 
マロが奥に向かって叫んだ。

『アレクシウス、君はどうして僕の帰国の日を知っているんだ?』 
別室のテーブルを囲むなり、ジェイウスが訊ねる。
『長官のエミリウスから聞いた』
『そうか、やはり長官も咬んでいるのか?』
『どういうことだ』

『ああ、どこから話せばいいか。
アレクシウス、エミリウスは君の直属の長官だ。
言いにくいだろうが僕と君の仲だ、正直に聞かせてくれ。
君は長官をどう思う?』
『そんな話は二人だけでしたほうがよくはないか?』
『マロは僕の腹心の部下だし、
ことによったらこれからケイディアも巻き込まれることになるかもしれないんだ』

そう聞いて、にわかにアレクシウスは眉根を寄せた。
『神殿の巫女がからんでいるからか?』
『そうだ』
『やはりな。最近どうもおかしいと思っていた。
長官が皇帝の側近というのはいいとして、巫女リディアとのことは・・・』

『皆知っているのか?』
『いや、近衛軍団の中でいぶかしく思っている者はいるが、
まだだれも確証を持てないでいるよ』
『私は知っているわ。
皇帝も長官も色香に狂って、完全にリディア様の手の内よ』

アレクシウスが驚いた目で私を見た。
なんということを、これがあの清純なケイディアの口から出た言葉なのか、
彼の目はそう語っていたが、
しかしジェイウスもマロも、当然私も、そんな彼を無視して話を続けた。

『アレクシウス、聞いてくれ』 ジェイウスが重々しい声で語り始めた。

『僕は軍団基地をガリア属州から辺境のライン川にかけて回ってきた。
それはいまさらながらに、前皇帝の成し遂げた偉業を確認する旅だった。
基地には有能な将軍たちが配され、いまだに前皇帝への忠正は微塵もゆらいでいない』
『それなら何の問題もないじゃないか』

『問題さ。その前線の兵士たちは、絶えずマルクス帝とコモドゥス帝を比べている。
前皇帝は病んだ体に鞭打って、ずっと自分たちを率い、鼓舞し続け、戦い、
厳しいガリアの冬にもローマに帰る事すらなかった。それなのに…』

『それなのに現皇帝は、ローマで巫女の宴に入り浸り、
剣闘士試合にうつつをぬかすばかり・・・ か?』
『ああ、兵士たちは皇帝に見捨てられたと、感じているんだ。
マルクス帝の死から10年以上も、ずっと辺境の防衛を担っている自分たちに、
何故コモドゥス帝はねぎらいの言葉ひとつかけにやってきてくれないのか、とね』

『なるほど。確かに気持ちはわかるな』
『僕は報告書とともに、皇帝に兵士たちのことを書き送ったよ。
みなよくやっています。
皇帝には、帝国を守る兵士に、この平和はおまえたちのおかげだと、
お声をかけてやって欲しいと。
そうすればさらに彼らは力を尽くして帝国のために働くでしょうと』

『で?返事はなんと?』
『わかった。褒賞をあたえよう、とね。
そしてこうも記されてあった。
おまえもよくやった。首都ローマの按察官に任ずると』

『ふむ、皇帝はローマを動きたくない、とな。
しかしおまえはすごい出世じゃないか』
『ああ、確かに。でも僕は思った。
この手紙は本当に皇帝が書いたのか?
もし皇帝でなく側近ならば、当然このようにしか書けまい』

『側近か…』
『例の愛妾とその夫はどうなんだ?』
『さあな、最近は少し影が薄いかもな。
あのやり手の巫女リディアが長官と組んで力関係が変わりつつある、
と見ていいかもしれない』

『エミリウスの狙いは? たとえば次期皇帝をねらっているというようなことは?』
『それはないだろう。自分が皇帝の器でないことはよく知っている』
『とすると?』
『おそらく狙いは皇帝直轄の属州、エジプトの長官あたりだろう』
『なるほど、蓄財か』
『そういうことだ。首都ローマでは許されないことも、あそこでならできるからな』

『アレクシウスとやら、あんたよく読んでるじゃない』
『これはおかみさん、お褒めに預かって光栄です』
『ちょっと、こいつの無礼を何とかしてよ、ジェイウス』
『アレクシウス、マロはおれの部下だが、大事な友人でもあるんだ。
それなりの敬意を払ってくれ』

『ほう、それほどの女なのか?』
『ええ、それほどの“女”よ』 私は笑いながら口を添えた。

『しかしジェイウス、おまえなにをそんなに深刻ぶってるんだ。
エミリウス長官も巫女リディアもクレアンドロスみたいにばかじゃないだろう』

『問題はリディアだ』

『どういうことだ』
『帰国したらただちに皇帝のもとに出廷するように、と手紙にはあった』
『ふむ、いいじゃないか。しっかりやってエリートの道を究めてくれよ』
『どこに出廷しろと書いてあったと思う?』
『パラティーノの丘のドムス(私邸)か?』
『いや、ヴェスタの巫女の家だ』

私は、はっと顔をあげてジェイウスを見つめた。
マロは、ほぉー、と息を大きく吐くと、椅子の背に深くすわりなおし、腕を組んだ。
その場を支配した緊張をいぶかり、アレクシウスが訊いた。
『それがどうかしたか?』

『リディアは前からジェイウスにぞっこんなのよ。
ジェイウス、だから私あんたに言ったじゃないの、一晩ぐらい相手をしてあげなさいって。
それをあんな手紙を書いて…
リディアを追い込むことにならなきゃいいと思ってたけど、それが現実になったわ』

『じゃ、あの巫女はジェイウスを我が物にしようと皇帝に取り入っているというのか?
しかし、そんな色恋沙汰にどうして俺がまきこまれなきゃならない?
このおかみさんの言うように、おまえが一晩相手をするなりなんなりして、けりをつけろよ』

『おかみさんってねえ、あんた、私にはね、マロっている名前があるのよ。
それにそんな簡単じゃない…』
『そう、そんな簡単なことじゃない』 ジェイウスが続ける。
『リディアはもうすぐ巫女の任期を終えるが、このままで行けば、
解放される自由と引き換えに巫女の権力を失うのではなく、
自由とともに更に強大な権力を手にすることになる。
リディアがおおっぴらに皇帝の愛妾におさまったら?』

アレクシウスがしばし考え込んだ。
『側近の勢力が二つに割れるか…』
『あるいはリディアと長官が割れたら?』 とマロ。
『ふむ、どっちにしてもやっかいだな。しかし鍵はリディアだとすると…
ここはひとつ、帝国のために、ジェイウス、
おまえがあの巫女の愛人になるのが一番いいんじゃないのか』
アレクシウスのその言葉に、私は両手で顔を覆ってテーブルに突っ伏した。

『他人事だと思って勝手なことを…
しかし問題はそんなことではない。
皇帝が側近に頼らなければ政治ができなくなっているのなら、
その周辺には権力を狙って巨大な渦巻きが発生する。
今まで安定していた均衡はいつ崩れてもおかしくない。
一旦崩れれば、最悪の場合属州の長官や辺境の軍団長なども動き出す…
とにかく君には長官エミリウスの傍にいて情報を集めて欲しい。
もしも近衛軍団を煽るような物言いが出てきたら要注意だ。
僕はリディアの筋書きに乗った振りをして、
彼女が突出しないようにできるだけのことをするつもりだ』

『ジェイウス、おまえ… 何を心配している?
それにこのことがケイディアと何の関係があるんだ。
巻き込まれることになるかもしれない、だって?巻き込んでいるのはおまえだろう』

その言葉に顔をあげると、苦痛を浮かべたジェイウスの瞳が、私を見つめていた。
『その通りだ。巻き込んでしまったのは僕だ。
僕はずっと口にしないでいた一言を、リディアへの手紙に書いてしまった。
愛しているひとがいます、と。
だからあなたの気もちを、受け入れることができないのだ、と』

『それはケイディアのことなのか?』
アレクシウスが、ジェイウスをひたと見据える。
私は目を閉じた。
ジェイウスの声が耳にこだましている。
愛しているひとがいます。愛しているひとがいます。愛しているひとが…

目を開くと、ジェイウスの視線とぶつかった。
『ああ、そうだ』

がたんと椅子が、アレクシウスが立ち上がった拍子に倒れた。

『オレは、ケイディアの婚約者だぞ。いや、婚約者だった、だが。
しかし、今も変わらず、オレはケイディアを愛している』
『ああ、知っているさ』
『知っていてどうして、おまえそんなことを…』
そう言うと、アレクシウスはつかつかと大またでドアに向かい、
私の顔すら見ずに部屋から出て行った。

『ちょっと、 待ちなさいよ…』
マロが後を追う。

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