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石の記憶 XⅤ  --From Roma ⑪

 

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XⅤ  --From Roma ⑪




朝、まだ薄暗い中を、私はマロの服を来てチェリオの叔父の家に帰った。
マロと服を交換すると間もなく、巫女の家から迎えがやってきて、
私の短い休暇は終わった。

その日、リディアは朝からそわそわしていた。
今日も皇帝のための宴を設けると言う。
長官エミリウス以外にもう一人客人を招いているので、
くれぐれも粗相のないようにと、全ての女官と奴隷たちが申し渡されていた。

客間はとっておきの調度でしつらえられ、
運び込まれる料理はこれまでにも増して豪華で、
今日の宴がどれほど重要なものかが窺われた。
全ての女官も席に連なるように、そして皆で客をもてなすように、
との指図も常にないことだった。

長官に続いてもう一人の客人、ジェイウスが到着した。
二人が席につくと、既に夕刻からやってきて奥の部屋で一休みしていた皇帝と、
華やかな衣装に身を包んだリディアの登場である。
その様子は威厳に包まれており、立ち上がって二人を迎える誰の目にも、
リディアが皇帝の自慢の宝であり、皇帝はリディアのゆるぎない宮殿、
いやリディアによっていともたやすく、あるときは彼女を讃える玉座となり、
あるときは彼女を守る黄金の盾となるだろうことが、見て取れた。

宴が始まる前に、ジェイウスが帰還の報告を皇帝に述べ、
続いて宴への招待の礼をリディアに述べる。

『お前の報告書は読んだ』 皇帝が口を開いた。
『属州の防衛線はよく機能しているとの事、これでわたしも安心だ。
来年のおまえの任務はドナウ流域からシリアへと考えていたのだが、
ここにいるリディアからおまえが演劇をよくすると聞いてな、
相談した結果、それならお前の能力をいかんなく発揮できる按察官がいいだろうと、なったのだ。
本日をもって、正式におまえを按察官に任ずる』

『ありがたいお言葉、このジェイウス身を粉にして帝国のために尽くします』
『礼ならリディアに言ってくれ』
おまえの能力を高く評価し、私に推薦したのは彼女だ。
今日の祝いの宴も彼女の心づくしだ。
さて、リディアの目がどれほどのものか、
これからのおまえの働きぶりが、わたしも楽しみだ』

『身に余るお言葉。
またリディア様、このたびのお取り計らい、こころよりお礼申し上げます』
リディアがジェイウス向かって片手を差しだす。
ジェイウスは立ち上がり、リディアの前まで進むと、
膝を床につきうやうやしくその手に接吻した。
あのマルケルス劇場での接吻よりより更に腰を落とした、それは恭順を表す姿勢だった。
リディアの顔が、勝ち誇ったように輝やいた…

宴はなごやかに進んだ。
歌や踊りの得意な奴隷たちはその芸を披露し、皇帝も長官も上機嫌だった。
ジェイウスは私を見ようとせず、私もジェイウスに視線が止まらないように注意を払った。
彼は芝居を打とうとしているのだ。
彼のどの言葉も、どのような振る舞いも、それは芝居なのだ。
私は絶えず自分にそう言い聞かせ、
そしてその芝居の中の自分の役割を、完璧にやりとげようと決めていた。
時々さぐるように私に注がれるリディアの視線は、気づかないふりをしてやり過ごした。

按察官とは将来有望な者に与えられる職務で、首都ローマに勤務し、
剣闘士試合や戦車競技のプロデュースなどを行う他、市場の管理や、
はては娼家のとりしまりまでを行う、興味深くはあるが大変な任務だ。
この任務を無事に終えて元老院に入る者も多いが、
ジェイウスの若さでの就任はそうあることではない。

しかし、リディアはなんと絶妙に役者たちを配したことか。
剣闘士試合にでることがこのうえない喜びである皇帝、
その皇帝の望みを叶えるための地位にジェイウス、
エミリウススは皇帝が剣闘士試合にうつつをぬかしている間、補佐として政務を行う。
皇帝もエミリウスもこの配役に大満足である以上、
ジェイウスも自分に与えられた役割を忠実に演じるしかない。
そしてリディアは、若きエリートの後ろ盾としての役割を、
大いに楽しみながら演じるに違いない…

その夜を境に、ジェイウスは巫女の家に足しげく出入りするようになった。
皇帝が剣闘士試合の打ち合わせと称して、
ジェイウスを巫女の家に呼びつけるからだけでは、もちろんない。

リディアは何の用事も無いのに、しばしばジェイウスを呼び寄せた。
女官も交代で席に連なるよう命じられたので、二度に一度は私も同席した。
私は、酒に酔ったリディアが、ジェイウスに身を預けるようにもたれかかり、
その手が彼の胸を撫でるのを、そ知らぬふりで眺めているしかなかった。
ジェイウスも、リディアの手を払うでなし、身をそらすでなし、されるがままになりながら、
私とはけっして視線を合わせず、時にはリディアの手をとり、握り返し、微笑みかけ、
ある時は何を考えているのか窺い知ることのできない表情をうかべたまま、
座っているのだった。

女官たちは影で、ついにリディア様がジェイウスを我が物にしたと噂しあっていた。
こっそり抱き合っているところを見たとか、いやそれどころではない、
もっと大胆なことをしていたとか。
もしこのことが皇帝に知られたらどうなるのだろう、と心配する女官もいた。
その心配は、皇帝もエミリウス様も、最初から承知のことに違いないと、否定された。
誰もリディア様にはさからえないのだ、と。
そうして春が過ぎ、暑い夏も、今年はリディアの癇癪も起こらずに過ぎていった。

ねえ、ケイディア、とそんなある夜、リディアが私に問いかけてきた。
いつものようにジェイウスを呼びつけ、豪勢な夕食をとっている最中だった。
『おまえとジェイウスは幼馴染だって?』
『はい、遠い親戚にあたり、一緒にオスティアで育ちました』
『ジェイウスはどんな子供だった?』
『両極端な子供でした…』 私は遠い日々を思い出しながら語った。

『ジェイウスはじっと部屋に閉じこもって、
与えられたおもちゃを組み立てたりバラバラにしたりして遊んでいるかとおもうと、
何か思いついたことを試してみたくて、
大人だろうと誰だろうと、かたっぱしからいたずらをしかけるような子供でした。
誰もジェイウスが明日どこにいるのか、
なにを仕出かすのかわからないと、よく母は私に言っていました』

『そう…』
リディアの眼差しが、慈愛に満ちたものに変った。
『ケイディア、おまえ、ジェイウスの隣に座ってみて』
『でも、それは…』
『いいから、お前たちが並んで座れば、幼い姿が浮かぶかもしれない…』

私は命じられるままにジェイウスの隣に座った。
ジェイウスは、さして関心のなさそうな顔をして、部屋の片隅を見つめている。

『ジェイウス、ケイディアはどんな子供だった?』
『ケイディアは…』 ジェイウスはしばし言いよどんだが、やがて微笑を浮かべ語りだした。
『ケイディアは、いつもぼんやり海を眺めているような子供で、
そうかと思うと砂浜で貝を探し始めると止まらなくなったり…。
いつだったか僕が帰ろうと言っても少しも聞かなくて、真っ暗になって、
そのうちケイディアの母親が探しに来て、二人で怒られて…。
その夜、ケイディアの父親に打たれました』

『ケイディア、おまえもそのことを覚えている?』
『はい。夢中になってしまって。夕焼けに光る貝がきれいで、
でも陽が沈んでもなぜか貝だけが光っているので、もうひとつ、もうひとつって。
父が私を打とうとするのをジェイウスが、
僕も悪かった、僕を打ってくださいって私をかばって、
父の振り下ろした鞭が彼の頬にあたって…』

リディアが、まるで姉のような暖かい眼差しで、私とジェイウスを見つめた。
夢想するようにしばらく目を閉じる。
しかしその目を開くと、そこに暖かさは消え、硬い冷たさだけが浮かんでいた。
ケイディア、そこをどいて、と、私の替わりにジェイウスの隣に座る。

『おまえの幼い姿が見えるようだわ… でも鞭のあとはない…』 
そう言うとそっと手を伸ばし、指先でジェイウスの頬に触れる。
『昔のことですし、叔父も本気ではなかったのです…』 ジェイウスが睫をふせる。
リディアの指はジェイウスの頬から顎をなぞり、唇に達した。
やがて指は、ゆっくりと唇をなぞっていく。
二人の姿が、鋭利な刃物のように、その場に置き去りにされた私の胸を切り刻んだ。

耐えられずに、私は客間を辞した。
部屋に戻りドアを閉めるまでの間、自分を持ちこたえるのが精一杯だった。
ベッドに身を投げ、声を殺して私は泣いた。

ジェイウスが、リディアの愛を受け入れたとは思えなかった。
あの日、ジェイウスは言った。
少なくともリディアが退官して巫女の家を出るまでは、
彼女が君から離れるまでは、僕は君の傍で君を守る。
そして帝国にも皇帝にも神殿にも、何事も起こらないように最善を尽くす…と。
しかしこれが、私を守ることなのだろうか。帝国を守ることなのだろうか。
ジェイウスを信じようとしても、絶えず私の眼前で繰り広げられる二人の親密な様子に、
私は次第に追い詰められ、
やがて森の真ん中に深く掘られた罠に、自ら飛び込んでしまいそうな気がしてくるのだった。

ジェイウスからは便りひとつ届かない。
へたに手紙など書くな、と言い渡されてもいた。
もっとも何かまともなことを書けるような精神状態ではなかった。

ジェイウスとは言葉を交わすことさえままならず、
まして二人きりで会うことなど、どう転んでも無理だった。

その頃の私を持ちこたえさせたのは、時々やってきてはジェイウスの様子を伝え、
あと少し辛抱しろと私を励ますマロと、
ジェイウスと過ごしたあの一夜の記憶、
そして彼が送ってくれた詩集が、あの一篇の詩が私を支えた。

今はもうすっかりそらんじてしまったその詩をつぶやけば、
彼の胸を私の名が満たし、私の胸を彼の名が満たすのを、感じることができた。
幼い頃から幾度となく私を呼んだ、彼の声を聞くことができた…

しかし、あとどれほどを、私は耐えることができるのか…

ある日、いつ明けるとも知れない夜をさまような日々を、
歯を食いしばってやりすごしていた私の、
緊張の糸を断ち切るようなことが、リディアの口から発せられた。

その夜も皇帝と長官、そしてジェイウスが連なる宴が催されていた。
宴が終わりに近づき席をはずそうとする私を、いつになく上機嫌のリディアが呼び止めた。
『ケイディア、おまえにも褒美をあげるわ。
エミリウス、私から伝えてもいいわよね』

何事かと席に戻った私にリディアが続ける。
『ファウスティーナの教育もあとすこしで一通り終わるでしょう。よくやってくれたわ。
おまえはジェイウスの幼馴染でもあることだし、この私が特別に取り計らいました。
任が終わったあかつきには、このエミリウスと結婚しなさい。
彼は病気で亡くなった前妻に操をたて、今まで一人身でいたような男よ。
地位といい、その心根といい、これ以上お前にふさわしい男はいない』

しばらく、言われたことの意味が飲み込めなかった。
『ほお、それはめでたい。私からも祝いを贈ろう』 皇帝の言葉が頭の上を通り過ぎて行く。
ジェイウスからは何の気配も感じられない。
私は黙って頭を下げ、動揺を気取られないように言うしかなかった。
『リディア様、身に余るありがたいお言葉…』 と。

立ち上がった私に、一瞬ジェイウスの視線が注がれた。
その視線で、彼の心から血が流れているのがわかった。
彼も血を流しながら演じているのが、わかった。

その夜、しばらく見なかったあの夢が、とぎれることなく私を苛んだ。
リディアの幸福に輝く笑顔に反して、ジェイウスの表情は暗く沈んでいたが、
しかしその夢の中でジェイウスは、裸の巫女を迷うことなく受け止めるのだった。

リディアは、あと数ヶ月後にせまった自分の任期に合わせて、
私の任期も前倒しで終わるように変更したかと思うと、
自分の退官の前に、是非にもこの家から私を嫁に出したいと、
嬉々として準備を進め始めた。
オスティアの両親の元にはリディアから報告が行ったようで、
母からは降ってわいたような縁談話を全面的に祝う便りが届いた。
すべてはリディア様におまかせすると。

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